反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

リードデリート


 消去する、ということ。



 今、消去しているということ。
 消去するといっても色々ある。書いた文章を消したり、書かれた文章を消したり、何かへの思いを胸中に塞ぎこんだり、辛い過去を忘れ去ろうとしたり。消してしまって、全て無かったことにしようというのは、少し狡い手段だと思うし、有効な方法だとは思わないし、そもそも無理な話ではないかと思う。覚えようとしてもなかなか覚えられず、覚えてもすぐに忘れるのに、忘れようと思ってもできずに、むしろ、そう意識すればするほど忘れられなくなるなんてことは、誰しも感じたことがあるのではなかろうか。
 仮に忘れられるとしてみる。忘れることが出来た、とする。では、そのことをどう認識するのか。「忘れる」という動詞は、目的語を伴う。つまり、忘れたと認識するときには、何を忘れたのか知っているということである。「宿題を忘れました」という言葉を耳にしたことがある。この言葉は、宿題を「持ってくる」のを忘れたのか、それとも「やってくる」のを忘れたのかを明言していないので、非常に曖昧な表現であるのだが、それについての話は今回は割愛する。因みに私は、持ってくるのを忘れたというようなニュアンスで報告したことがあるのだが、実はやってくるのを忘れていただけの話である。とにかく、忘却には対象があって、対象の忘却の完了には、対象の認識が不可欠である。ここで問題となるのが、記憶や思考、感情の忘却、簡単に言えば「あんなことやこんな感情は、なかったんだよ」というような場合だ。こういう類は他人から指摘されて初めて自分がそれを忘れていたことに気付くものであるのだが、自分から積極的に忘れたい消し去りたい、と思う人も多々いるように思える。積極的に忘れることは、基本的には不可能であるのに。それは、前述したように「意識するたび、記憶に残るよ」だからである。しかし例外は存在して、過度の抑圧により一種の記憶喪失障害状態に陥る人もいる。
 そういう人たちに皮肉を込めて聞きたい。
「忘れたいことを忘れられて、幸せですか?」と。
 きっと幸せだとか不幸せだとかそういうのは無くて、むしろゼロの状態なのだろうけれど、でも、辛いことや悲しいことは忘れてしまえば、それで解決なのだろうか。酷い言い方をすれば、甘えだと言われても仕方がない気もする。全て忘れて、何もなかったんだよ、なんて、その中に残された人には残酷すぎるだろう。卑怯だろう。そうやって楽しかったことだけ覚えて嬉しさだけ感じて生きていくのは、何か違和感を覚える。文章の削除も発言の抹消も、思想や思考を無に還すという点で、同様に何かが間違っているように思える。だが、忘れないで全て受け止めるというのも酷な話だろう。結局はどこかで折り合いをつけなければいけないのだけれど、それが出来ずにいる。
 まあ、こんなことも何時かは忘れてしまうのかもしれないけれど。