反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

しがない死神、獅噛み付く


 神懸かった過去の栄光にしがみつくのをやめれば、楽になれるかもしれない。
 取るに足りない古い慣習にしがみつくのをやめれば、楽になれるかもしれない。
 しがみついているロープから手を離せば、あなたはそのまま落下して、楽になれるかもしれない。



 死のうと考えて何か行動に移そうとするくらいなら、例えば高所から飛び降りてしまおうとするくらいなら、不慮の事態で死んだほうが辛くないのかもしれない。今から死ぬのかと考え、実感するのは辛い。何かを考える隙も与えずに死ぬのが最も楽だ。自分から積極的に死ぬというのは、想像以上に難しい。「死ね」と言われるだけなら簡単には死なないし、「死ぬ」と言うだけなら簡単にできるのだけれど、自殺は複雑で困難で、難解だ。他殺は簡単で容易で、平易だ。不慮の事故で死にたいなんて、あまりにも贅沢な願いではないか。
 「不慮」というのは、思いがけないということ。だから、贅沢といってもそれは条件付き贅沢である。死の願望が本来贅沢であるはずがない。そうであってほしい。どうせ死ぬなら、の話である。生きたくても生きられない人がいる? 死にたくても死ねない人だっている。良くも悪くも。私が無駄に過ごした今日という日は、昨日死んだ誰かが生きたいと願った明日であると同時に、昨日まで生きてきた誰かが死にたいと願った明日であり、昨日自殺した誰かが死んででも迎えたくなかった明日でもあるのだ。
 死にたいという願望は、生きたいという願望と等価とは言えないだろうかと考えてみたが、残念ながらそれはきっと無理であるように思う。一般に死はネガティブなものである。痛みを伴い、苦しみに悶え、悲しみにくれる。恐怖を感じる。それは未知ゆえなのかもしれないが。ネガティブシンキングする。否定的に考え、沈んでいく。ただ気になるのは、死への反応の違いである。事故死。病死。老衰死。これらは死因がわかる。理解出来ないわけではない。納得もできるかもしれない。自殺はどうだろうか。原因は何だろうか。見えるか。分かるか。多分難しいものがあると思う。理解されているか。どうだろうか。自殺者に対して、哀れみとともに批難と軽蔑の視線を送ってはいないだろうか。精神の病は、心の病は、死因として妥当ではないのだろうか。辛いと言うのは甘えだろうか。不慮の事故ではないだろうけれど。突然訪れるのに違いはないけれど。普通は不慮の事故に対し、死の準備が出来ていない。
 自殺をする人は、それなりの何かを遺す。とりあえず部屋を片付けてみたり、体を洗ったり。仲のいい友に思わせぶりなことを言うかもしれないし、急に誰もに優しくなるかもしれないし、遺書を書くのかもしれない。不慮では、不意では、そんな暇がない。ああ、まだ数学の課題が終わってないのに、なんていう客観的に見て滑稽だとすら思われるような、そんなことを考えているうちに人生が終わってしまう。

 死の準備を、しよう。
 しかし、いつでも死ねるというのは、逆に恐ろしい。いつ死んでも良い、何なら今すぐに死んでも良いということになりかねないからである。どうせ死ぬのだけれど、むしろどうせ死ぬのなら、まだ先延ばしにしても良いじゃないか、準備なんて悍ましい、と思いはするものの、予測不可能だが必然的な死を無視することはできずにいる。「今死んでも悔いの残らないような生き方」というのは、一見素晴らしいように見えるが、死の準備を着実に進めているという点で、畏れ多い生き方でもあるように思える。「死ぬ気で生きる」というのは、死を自覚してむしろ思い切りを失ってしまうこともあるかもしれないし、「死ぬ気で頑張る」というのは、その対象が、命をかけないと本気を出せずにいるものだということなのだろうか。今死んだら非常に勿体無くて後悔するほど充実している生き方、なんていうのもあっても良いのではないだろうか。
 準備は、万端か。

 心の準備?
 心は準備するものではありませんよ。