反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

見えざる手返し二十五階段


 悲惨な現実に目を瞑ることがあるかもしれない。
 それでもなお、思考することはできる。



 間違えるということは、一概に悪いとは言えないのではないでしょうか。偶然の正解で上手くいくことは、その時々では良いことのように思えますが、同時に、大事な時に同じように上手くいくとは限らないという危険性もあります。一度間違えることで、その間違いを認識でき、次回の確実な正解と成功に繋げることができるのです。初めから間違えないようにしようと気を付けすぎて、かえって成功から遠ざかることがよくあるように、「完璧主義」は「完璧」と似ているようで大きく違うものなのでしょう。誤ったなら謝って、やり直せば良いのです。もちろん、間違えて良いことと悪いことの判断は必要ですが。法を犯したり、罰として絞首台に立たされるようなことをしたりするのでなければ、失敗も必要なステップアップです。人は万能な神ではないのだから、失敗してしまうことだってもちろんあります。失敗を恐れる必要はないのですが、だからといって、それは過ちを繰り返しても良いという意味ではありません。間違いは、正しい景色を見るための、階段なのです。
二重に間違えて正しい方向に進むということも、多くはないにしろあります。それは例えば、考え方を間違えたけれどやり方も間違えたせい(おかげ)で良い結果が生まれるといった一個人内のものだけでなく、互いに相手が自分のことを好きであると誤解したことで生まれる恋愛関係といった二者間のそれも確かに見受けられるようです。それが良いことであるか悪いことであるかは分かりませんが、まあ、恋愛については、偏心(ひとえごころ)を持ち続けるのであれば、多少変なきっかけでも問題ないのかもしれません。

 心は不可視で不可思議です。見なくて済むことで得られる安心は確かにあるようですが、見えないということは分からないということであり、それは恐怖に繋がります。怪談が怪談として成立するのは、怪異が人智を超えたところにあるからです。その意味で、神と怪異は紙一重だと言えるのではないでしょうか。
「見えないものこそ大事である」という言葉を何度となく見聞きしたことがありますが、目に見えるものが大事ではないという意味ではないということは言うまでもありません。見えないものは、その存在に気付かれにくいために、そして、見えるものは当然のものとして見逃されやすいために、その重要性を認識されにくくなっているのかもしれません。
 知らない怖さがあるように、知る怖さもあります。「知らぬが仏」で「言わぬが花」なのかもしれませんが、知らないでいることと違って、知ることには、積極的な喜びがあるのではないでしょうか。

 一を聞いて十を知ることができるのなら、十や二十を教えられた頃には、百も承知で二百も合点なのかもしれませんが、それがどんな内容であろうとも、百聞は一見に勝ることはできないのです。