反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

long, wrong ago


 昔々あるところにいたおじいさんとおばあさんも、そのまた昔は幼い子供だった。



 生まれてから死ぬまでに間違いをしたことがなかったなんていう人はいないだろうが、生まれてから死ぬまでの間、良かったことしかなかったと思う人はいるかもしれない。それは単に「良い」という基準が何であるかによるものなのかもしれないが、もしかすると「良かったこと」しか思い出さなかったのかもしれない。それはそれで幸せな人生の終え方なのだろうが、少し寂しくもある。
 過去の出来事の中でも重要なものだけを取り上げるという性質がそこにあるなら、最後に走馬灯のように浮かぶ思い出も、ある種「歴史」的であるように思う。終わり良ければ全て良し的な発想を見ることもできるだろう。だが、それでもやはり、後悔せずにはいられない過去の過ちというものも確かにあるらしく、若い頃の、特に学生時代の失態を、「黒歴史」と呼んでいる人もいるようだ。
 黒歴史といえば中二病、という連想をする人は多いのではないだろうか。「中二病」とは、中学二年生になる頃に抱きがちな心理状態を表す造語だが、解釈の幅が広いために安易に使われてしまうきらいがある。中学二年生だからといって中二病患者であるわけではないし、中学二年生でないからといって中二病に罹らないというわけでもない。ちょっと哲学しちゃっただけで中二病に認定されることもあるというのだから恐ろしい。特徴としては、画数の多い字や難しい語、外国語や記号などの多用や、悪いことや黒いものや他と異なることへの盲信的で崇拝的な態度などが挙げられ、周囲の目が気になったり、多重人格になったりする自意識過剰期なのだが、簡単に言えば、「オレってカッコイイ」に帰着するものである。そして、これに対する「アンチ中二」が、俗に言う「高二病」である。恥や後悔からくるものなのかは分からないが、中二的な誰かを批難することで、自分を大人に見せようとしている、みたいな。少なくとも自分はそう定義している。何というか、言葉が増えるのは良いことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。せめて中身が伴っていないと困る。

 昔は良かったと懐古したくなる気持ちが分からないわけではないけれど、やはり新しいほうが優れているということの方が多いように感じる。それは多分、それらが同一の目標に向かっているからだ。どれだけ目標に近づいているかという、はっきりしたものさしがあるからだ。「優れていることは良いことだ」とは言えないと思う人があるかもしれないが。
 そんな数多くある「新しいから優れているモノ」に対して、芸術は、新旧で優劣つけることが難しい。というかできない。ある一定のレベルに達してしまえば、そこには序列はない。ただ、存在するだけ。しかし、その「一定のレベル」に達するというのが難しい。何だってそうだ。権利を主張するだけの価値があるのか見直すべきものがあるかもしれない。逆に、守られる価値あるものが、間違って見逃されているかもしれない。

「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」という言葉があるが、私はそれに反論したい。未来とは、未だ来ていない、真っ白どころか透明の、何者でもないものであるのに、その決まっていない未来を「変える」とは変ではないか。未来にタイムスリップしたとしても、現在がその未来に追いつくまで、そこには何もないと考えられはしないか。それに対して過去は、意味上でならいくらでも変更可能だ。無意味な過去の記述も、簡単に伏線に仕立てあげられる。自分を変える必要を感じるのは、変わる他人と関わるからで、変わる自分が他人を変えて、変わった自分も自分としては、決して変わることはできない。間違った考えなのかもしれないが、反論の試み自体は間違いではないと思いたい。
 過去や未来や他人や自分が、何であるかを決めるのは、今の自分だけだ。それは何度だって決め直せる。