反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

悩みの種の明かせない夜

 明けない夜がないのと同じように、暮れない日もない。


 自分は実際は、ある側面において「手品(奇術、マジック)」のことが好きではないのではと思うようになった。
 小さい頃からそれに対してそれなりの興味があって、数年前からしっかりと関われるような環境にいることができて、ああ自分はマジックが好きなんだなと思っていた。そうなのだけれど、マジックと自分との距離が近づくようになってしばらくして、次第に違和感を覚え始めた。自分の演者として望むこととはなんだろう、観客に対して望むことはなんだろう……。そんなことを考えていくうちに、僕の「やりたいこと」に対する考え方がぐるぐると渦巻いていったのだ。練習していて楽しいと思うこともあるし、誰かに見せて良い反応が返ってきたときは本当に嬉しいしやっていてよかったと思う、のだけれど。

 日本で広く広まっている奇術の心構えとして「サーストンの三原則」がある。

サーストンの三原則

  1. 披露する前に現象を説明してはいけない。
  2. 繰り返してはいけない。
  3. 種明かしをしてはいけない。

「サーストン」というのは、ハワード・サーストン(Howard Thurston ,1869-1936)という、アメリカのマジシャンのことであるが、彼自身が三原則としてまとめたわけではない。マジックにおける「意外性」を損ねないようにするための配慮でもあり、演じるものは知っておいてよい考えである。
 あえて「知っておいてよい」という表現にしたのは、この原則が全てではないからだ。例外はある。先に何が起きるかを言ってしまうこともあるだろうし、何度も繰り返すものだってあるだろうし、種明かしだって、するかもしれない。
 マジックや手品という単語でWeb検索をかけると、ほぼ確実に「種明かし」もサジェストされる。それだけ見ている人は種を知りたがっているのだと思う。YouTubeなどでは、いろんな人が演技動画(それを「演技」動画と呼ぶのかはひとまず置いておく!)をあげている。それらを見てみると、ある一定の技術力のある人は、種明かしをしていないことがほとんどだ。逆に言えば、種明かしをしているものは低質なものが多い。ここまで言うと種明かしをしている人を非難しているように見えるのだが(僕も動画をアップロードしたことがあり、ものすごく酷く非難されたこともある)、僕は、本当のところは、種明かしをするという行為自体が悪いとは思っていない。もちろん、僕は基本的には無闇に原理や手法を教えたりはしないし、マジックをしている他の誰かに積極的にやり方を教えてくれと言うことも避けているつもりだ。本当はすぐにでもそのトリックを知りたいという気持ちはあるのだけれど、「原則」のことが頭をよぎって躊躇ってしまう。これまでの人生を鑑みるに、僕は「規則」に弱いらしい。限界まで自分の頭で考えてみて、それでも分からなくて、かつ自分がいつか演じてみたいと思ったときに聞こうとするスタンスでいるつもりだ。

 そういうわけで、種を明かしてはいけないと言われている中で同時に、なぜいけないのだろうと思い悩んでしまうこともある。知って幸せになれる(少なくとも知る前にそう考えている)なら、それでいいのではと思う。まあ、プロがそれでお金を貰っている以上、少しでも妨げになるようなことはやめるべきだ(少なくとも、演者や客が望んでもいない種明かし・ネタバレをするのは誰も幸せにならないというのは容易にわかる、これは何に関しても同じだ)というのはわかる。
 伝統芸能や音楽や絵画にありがちだと(勝手に)思っているのが、その鑑賞の仕方に何らかの(ときには暗黙の)ルールが存在するということだ。予備知識があったほうがより深い理解を得られることもしばしばあるだろうし、「正しい」見方を知っていればより楽しめるだろうなと思う。初心者に厳しい部分があると思いながらも、そういう性質なんだから仕方ないと諦めている部分もある。学生の演劇や演奏会などの発表会に来るのはその関係者ばかり、といったことが本当に多いと思う*1。本当に多方面からの来場を望むのならば、もう少し間口を広げてもいいのでは、とも思う。勧誘に関してもそうだ。その性質上、マジックに関しては、よりクローズドになりやすい。
 種を見破ろうとしながら見る人は、教えれば満足するのだろうか。見破れれば満足なのだろうか。別に勝負しているわけではないのにそういう態度で見られると、なかなか難しい。そんなに知りたいなら教えてやるよと、それで勝手に勝ったと思うならそれでいいよと、思いたくなる。勝負させないように、単純にマジックそのものを楽しんでもらえるように演じられるような能力が、僕にはまだしっかり備わっていないだけのかもしれないけれど、ときどきつらくなる。演者の都合を観客に押し付けるのは違う気はするのだけれど、最低限のルールというか、「こういうふうにすればこういうことになる」みたいなことを考えてほしいというか、まあ簡単に言えば「思いやり」がほしくなったりもする。「思いやりがほしい」なんて、自分勝手だとは思うけれど。
 種を知っていればそれだけでもう見なくていいと思われるようなものにはしたくない。音楽や小説や演劇や映画だって、結末がわかっていてももう一度触れたいと思うことがあるように、マジックでもそうであるほうがよいと思っている。大事なのはそこにあるトリックやテクニックではなくて、声のトーンや間だったり、構成だったり、見る人の気持ちを考えることだったり、そういったところにあると思う。そういう意味で、僕は本当は、全体として見た「マジック」にあまり関心が持てないのかもしれないと思ってしまった。僕の好きだったのは、そこにある不思議に対して解明しようと熱を注いで考えて、実践して謎が解けてく、そういう部分だったのではないか。そうだとしたら、それは決して「マジック」などではないと、考えてしまった。それと同時に、矛盾しているようにも聞こえるけれど、最近では、テクニックをあまり必要としないものを選んで演技し、それ以上に普段するような会話をよくしながらマジックをするという形式で人に見せることが増えたように思う。もちろんそれは友達に軽く見せるといった場ではなくて、マジックを見に来た見ず知らずの人に楽しんでもらうために設けられた場でだ。
 多分、僕は「マジック」というものに複雑なトリックや高度なテクニックを求めていなくて、同時に、複雑なそれを解き明かそうという気持ちがあるのだと思う。

 種を知りたいと思う人の気持ちの源泉が何なのか、僕は知りたい。知らないままでいられる気持ちも聞いてみたい。
「知らないほうが幸せだ」とはよく聞くが、僕はそうだとは全く思わない。ミルの言う通り「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである」と思っているからだ。知ってなお、その事実を受け止めて承認したい。それだけだ。その点においては僕は絶対に逃げない。

 何に対してどう思っているかわかる、それだけでも、関わってきてよかったと思う。

*1:自分はその点に関して興味の幅が広くフットワークが軽いと思っているので、各種公演や展示などがあることがあればぜひお誘いください、喜んで行きます