反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2018-04-16

 更新が滞るのは現実が充実しているからなのかもしれない(、と思いたいだけなのかもしれない)です。

 5年連用日記というものをつけていたのですが、去年から完全に筆が止まってしまいました。昨年の一年間は、ちょっとした理由でその大半をウェブ上に記録しなければいけなくて、毎日何をして何を学んだか、何を考えたのかを記していたわけなのですが、それもあって、わざわざアナログである日記の方に同じことを書くというのも無駄な気がして、日記をつけることをやめていました。その結果、また新たな年が始まっても、その流れを止めることができずに日記帳(「帳」と呼ぶには分厚い本ですが)を開けずにいたのです。ここでは日記を書くつもりはない、ということを以前書いた気もしますが、今もその通りで、ただ、日記を書く余裕がない、いわんやブログをや、という感じなんですよね。
 とりあえず、ここ最近これに関して思っているのは
・完全でなくても終わらせることに目を向けること
・自分「で」生きること
です。
 ひとつめはDone is better than perfect. という有名な言葉ですね。もう少し「ひとまず終わらせる」ということに気を配ったほうがいいのかもしれないです。多分、私自身完璧主義な部分があって、どうしても完璧にこなせないのなら初めからやらない、終わらせずになかったことにしたいと思うような気持ちがあるみたいです。それは、何かを無責任にしてしまうことに抵抗があるからなのだとは思いますが、もう少し、良い意味で自分勝手に生きていいのかもしれません。
 そういう意味で、自分自身でやりたいようにやるということを考えたほうがいいのでは、というのがふたつめです。他人の考え方やそこから現れる行動を変に気にしてしまうので、多少はそれを無視することも自身の健全な精神の保持にとっては重要なのかもしれません。もっと搾取することに気軽になれ、ということでもあるのですが、それについては話が長くなりそうなのでそれはまた後日。

 普段、感じたことや考えたことを遠慮なく言うほうなのですが、こうして文字に起こすことはなかなかしないので、今後のことを考えると、今のうちにかけるだけ書いたほうがいいのかもしれません。自己分析みたいなものではありますが、ただ自身の中で考えるだけではなくて、誰かに伝えるということも考えると、ブレインストーミングしておいたほうが楽だとは思うので。「誰かに伝えよう」と考えている時点で、他のことを気にしすぎているような気もしますが。
 もう3年前くらいから、「今年の抱負」が「自分のために生きる」系のもので止まってしまっているのですが、やはりそれが一番難しいからなのだろうなと思います。できる限り分割して考えないと、今の自分にはそれは難しいのかもしれないです。

 推敲していないのできっと読みにくい文章ではあると思います。ただ思うのは、自分のために生きるということと、「だから、推敲して他の人が読みやすいようにするといった配慮はしなくていい」と結ぶのは違うということであって、そのバランスがすごく難しいのだと思います。考えることがなければそれはそれで幸せなのかもしれないですが、その幸せよりももっと高次な幸せを感じたいと思うので、不満足でも今は十分なのかなと考えています。