反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

遺体解体

 流れ星に願い事をすると叶うと言われていたのは、流れ星を見つけるようなふとした瞬間でも考えているほどの強い気持ちのあることならば実現するだろうと思えたからなのだと思う。


 矛盾しているように聞こえるが、やりたいことだけをやることが本当に「やりたいこと」ではないということはあり得ると思う。それはつまり前と後ろで「やりたいこと」が示す範囲が違うから起きているだけの単なる言葉上の問題なのだが、それについてここで今一度考えておくべきであると思う。

 適当に思いつく「やりたいこととして挙げられそうなもの」を挙げていく。やりたいことと言うよりはもはや単なる希望であったり夢であったりするかもしれないが。

 お金を稼ぎたい。稼いだお金で豪遊したい。稼がなくてもいいほど、買いたいときにお金のことを気にしなくていいほどお金を得たい。
 仕事を円滑にこなしたい。多様な能力を身につけたい。やり遂げた達成感を味わいたい。良く評価されたい。信頼されたい。
 速く走りたい。大きな負荷に耐えたい。体を思い通りに動かしたい。良い体つきになりたい。健全な肉体を得たい。健康でいたい。丈夫そうだと思われたい。試合に勝ちたい。勝って喜びたい。
 良い人間関係を築きたい。困ったときに助けられたい。切磋琢磨したい。多くの視点を得たい。
 好きな人と一緒にいたい。嫌いな人を作りたくない。もしできてしまったら解決したい。合わない人から逃げたい。存在を否定したい。
 素敵な景色を見たい。美味しいものが食べたい。感動したい。多くの体験で感性を養いたい。
 賢くなりたい。不思議な現象を解明したい。わからないことがわかるようになりたい。

 挙げたらキリがなくて、遂行もしていないのでまとまりもないけれど、まあ、結局のところこういうのは何でもいい。
 こういう望みがあるとして、この望みが達成されたときに、この望みのみが達成されるのだろうかということが問題であるのだと思う。お金を稼ぐにはそれなりの別のコストが必要であるし、勝って喜ぶということは負けて悔しい相手を生むということだ。何かを知って嬉しいと思うことがあると思う一方で、何かを知ってしまって悲しくなることももちろんあると思う。角が取れるようになるまでに、どれほど周りにその角をぶつけてきたのかを考えなければならないのと同じで、何かが起きたときには、いつもそこには番の形で存在していることを忘れてはいけないのだ。忘れる以前に覚えていないのは論外だが。

 人によって望みが違うので、解決の仕方も違う。問題が起きたときに逃げたほうが楽だと考えて実行する人もいれば、立ち向かう人もいる。そこでやっぱり逃げてよかったと思う人もいれば逃げなきゃよかったと思う人もいるし、立ち向かった結果として問題が解消されてよかったと思うこともあれば逆に問題が悪化したり自身を苦しめてしまうことになって後悔してしまうこともあるだろう。
 こういうとき、何がしたかったのだろうと、思う。

 僕がまだ小学生だった頃、バレーボールのクラブチームに所属していて、その引退試合の最後の得点となったとき、コーチが言ったことを今もまだ覚えている。
「最後にどういう形で終わりたいか、どうなったら後悔するか、どうなったら清々しい気持ちで終えることができるかを考えて、最後のプレーをしろ」と。
 まあ俗にいう「やらずに後悔するよりやって後悔しろ」という類の言葉だったのだろうが、ときどきその時のプレーは「誰にとって」「正しい」ものだったのか、考えてしまうことがある。自分勝手な行為ではなかったか、それは他のチームメンバーは認めてくれるのだろうか、そんなことが気になってやまなかった。チームプレーとはそういうもので、全員の意思を考えないとうまくまとまらないのだと思う。僕にとって綺麗に終わる形でも、他の誰かから見たら曖昧な幕開けであることは往々にしてあるのだが、それでいいのかと思ってしまう。もっと自分勝手になるべきなのか、このままでいいのか。

 傷つきたくはないが、長期的に見ればそれで良かったのだと思うこともある。逃げることでそれが見えない傷となることもある。原因のわかっている傷は原因がわかっているので、治そうとすることや受け止めることができるが、原因不明の傷や、それを傷であると気づかない翳りに対しては、僕らは無防備で、何もできない。ただそれが潜伏していて大きくなって現れても、そのときには増幅してしまってわけのわからない苦しみになっているのだ。
 逃げてしまうのもそうだし、嘘をついてごまかすのもそうだ。
 ただ、苦しいのは、逃げずに立ち向かえば、本当のことを言えばそれが回避できるのかということだ。一生引きずるほどの痛みを負ったり、引き返すことができないつらい状況になったりすることもある。

 どうしようもない。だが、どうしようもないということを知って、今できることをやること、今の自分が考えられる限りのことを考えて、実行して、それで起こったことに対して受け入れるということならできる。思うに、一番つらいのは、「あのときああすればよかった」ではなく、「あのときの自分ならできるはずの思考を、一瞬の苦からの退避行動や甘さでやめてしまったことで、今この状況を引き起こしてしまったこと」であるのではなかろうか。その時にそうできなかったことが分かっていれば、そうすればよかったという幻想でしかないたらればに苦しめられることを避けられるだろうからだ。
 こういう考えも、「何も考えない人」にとっては意味をなさなくて、そもそも真に苦しみを避けたいというよりは今の苦しみを表明したいだけの人には馬の耳に念仏であるのだ。楽しいことも苦しいことも、全部言いたいだけで、やりたいだけ。したいことだけして周りのことも後のことも何も考えず死ぬ。そういう人間の形をした何かが存在していて、僕らはその存在も考慮して生きねばならないのだろうか。

 どうすれば短期的な未来と長期的な未来において良いと思えるような選択にしていけるか。それは自分自身で考えを捏ねるだけではだめだ。
 周りの人たちや、「何か」に対してどういう振る舞いであることがより自分を大事にできるのかを見る必要がある。
 選ばねばならないのだ。そして思うのは、非道でも平等であるならば、それで一貫していれば自分にとって良いのではないかと。きっと恐れるべくは、自分を安定に保てなくなってしまうことで、一貫性を失うことで、軸を失うことだ。

 これは納得であり表明であって、誰かを動かすための主張ではなく啓発でもない。

 もちろん主義に反する「何か」の存在を認めたくはないが、在るのは事実であるから、受け入れなければならない。それは正そうとする在り方でも良かったが、全てが思うようになるわけではなくて、だからこそ名状しがたい「何か」であるのだと思う。悲しいが一種の諦めでもあるのかもしれない。
 根こそぎにしてしまえ、絶やしてしまえとどこかで思ってしまうし、内心きっとそうなればいいと望んではいるのだろうが、力不足だったのだ。それは受け入れざるを得ない。

 話は戻るが、やりたいことを考えたときに、どうしてもそれが周りにとって「なされたいこと」であるかを、僕は見逃すことができないのだ。大抵の人は、誰かを殺したいと思いはしても考えるだけで実行しないのと同じだ。自分を正しく表示できるスタイルであり、正しく評価される基準が保存されている限り、その範囲内で自由に柔軟に調整することが良いことだと信じてやまなかったし、天秤にかけて何かを選ぶことだって、誰だってやっているだろうが僕もやってきたのだ。
 ただ、天秤にかけたもの、天秤にかけられるほど信頼してきたものに無下にされるのがつらいという、感想なのだ。
 信頼とはそういうものなんだろう。僕が「そうしたかった」だけであって、その見返りや報いを得たいと思うこと自体、卑怯なやり方だったんだろう。ミカゼちゃんみたいに、残酷であろうとしても同じようにそれに疲れるのかもしれない*1が、少なくとも鏡であり続ければ、僕は僕であることを保てそうな気はする。
 自分にとって、自明なものとしてやってはいけないことであるからやりたくてもそうしない殺しと同じようなものが多すぎるのかもしれないし、恐ろしいが逆に言えば、その程度までに多くの人がやってはいけないと確信している境界が、自分にとっては少し緩いのかもしれない。
 やりたいことを考えるほかに、やってはいけないことは何故やってはいけないのかということにも触れたほうがいい気がしてきた。これは、したいことではなく、しなければならないことであるはずだ。

*1:模造クリスタル、金魚王国の崩壊、2008~