反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2018-10-03

 早起きができています。ただ、体調は芳しくなく、喉がやられました。風邪気味で、少し熱もありそうな感じです。
 原因はなんとなく自覚していて、おそらく先日椅子に座ったまま眠りについてしまい、薄着だったことから朝の寒さに体が耐えきれなくなったのだと思います。季節の変わり目は制御が難しいですよね。
 とはいえ今年も暑かったり寒かったり適度なグラデーションがあまりなかったように感じます。急に近づかれるとやはり体は混乱してしまうみたいで、季節に駆け引きは必要ないのでぜひやめてもらいたい。

 ある対象に接近しすぎるのを避けて遠巻きに見る「ドン引き」と、接触を試みることがすぐにできるほと近づいて注視する「ガン見」をバランスよく持つというのは非常に重要(こういうときは、真に重要であるというよりはむしろ単に自分自身で面白がっているだけなのですが)だと思っていて、駆け引きとは違いますが似たような形をとっていると考えています。ある人が何に興味を持ち何を忌避しているかを把握したり、自身の干渉の度合いを見直して全体と雰囲気を合わせたりするにはこの両者の調節について目を向けてみると面白いと思うのです。
 今ここで詳細に話すことができればいいのですが、時間と能力が足りていません。こういう風呂敷を広げる行為をして放置することを今までやってきすぎている感は否めないのですが、何も言わないよりは自身の動機づけにはいいのかなという気はします。ただ、読み手がいるとすれば、また期待させるだけさせて、はじめの威勢だけはよくて中身が伴っていなくて、不信感や不満を募らせてしまっているのかもしれません。しかし、以前言ったことを考慮してみるとするならば、それが自身のためにやりたいことをやるということに繋がっているのかもしれないし、ここに若干の配慮不足があると思ってしまうのは、ドン引きした自分の感覚であり、やりたいことをやろうとガン見しようとしている自分に傾斜をつけてもいいのかもしれません。個人的には、伏線を張るだけ張って回収できなかった創作物には不完全燃焼の違和感とそれに伴う負荷がかかるので、よくはないことであると思っているのですが。
 言い出したことには責任を持つということに関しては、急に巨視的になりますが私自身生きる上でかなり気にしていることであるので、何を言いかけて何をしようとしていたか、一度引いて見てまとめないとだめですね。
 この「一度整理したほうがいいかもしれない」というお話、以前も言うだけ言っていたような気がします。
 熱が冷める前に早急に対処すべきだ。

2018-10-02

 ゴミを量産するのと何も生まないの、どちらがいいのかを考えていました。
 おそらくこれには若干の欠陥があって、自身の判断でゴミであるとしてしまう部分に誤りがあった場合、意味をなさないということです。ただ、よく考えてみれば、ゴミを生むためにそうしている場合というのはそもそも世の中にあまりなくて、大抵の場合、何かの副産物や結果として生じるものであるということを鑑みれば、価値のなさそうなものであっても何かを創造するという行為、それが目的であれば、何も生まない無よりは良いような気がします。

 誰にとってだ。

 こういうことを考えてしまうから良くないのかもしれない。何らかの行為が何かに影響を与えてしまうというのは言うまでもなく当然のことであって、わざわざ気にすべきことではないのかもしれないけれど、それを気にしてしまうのは良くない癖なんだと思います。それは誰にとって良くないんでしょうか。
 誰にとってどうなのか、と考えることは、今までも、そして最近の私の中でもかなり大きな部分を占めているように思います。これを脱さなければ「自分のために生きる」ことはできない気もする一方で、受け入れることも必要であると感じてはいます。そういう意味で、今年は「大胆に生きる」を掲げることにしていました。
 抽象的で良くないですよね。少なくともこれは自分にとって、自身の生き方の指針として良くない。

【クレカ不正利用との戦い】2. 第1回問い合わせ(カード会社)

 クレジットカード会社問い合わせ回です。

 前回の記事はこちら↓
phidoa.hatenablog.com


 まず、問い合わせといってもいろいろあって面倒ですよね。メールフォームだったり、電話だったり。内容で細分化されたりもしているわけで、自分の問い合わせ内容がどれに対応するかを探して、予め提示してあるトラブルシューティングで解決できるかを確認して。
 こういうの、全員が全員ちゃんと確認して問い合わせしているんですかね。
 まあそれがどちらにせよ、会社にとっては確認してから問い合わせしたほうがありがたいのだろうから、そこはしっかりと確認しておくことにしておきます。

 不正利用発覚に気付いたその日に、カード会社(以後、S社とします)に電話にて連絡をしました。電話番号は、S社ウェブページに記載の番号(これはカード裏面にも記載がありました)を入力しました。重要な会話は録音することを心がけていたのですが、今回そのような余裕がなく出先で連絡をしたので、内容に関しては厳密に再現できないということを先にお伝えしておきます。
 まず、自動音声の案内に従い、適切な番号を入力します。よくわからなければ、その他(うろ覚え、コールセンターの人と直接話せるもの)を選び続ければ問題ないと思います。たしか、クレジットカードの番号(表面記載)を入力した気もします。


Φ


「もしもし、はいどあと申します。この度は心当たりのない請求がありましたので連絡いたしました」

S社「担当いたしますKと申します。……本人確認のため、生年月日をお願いいたします」

「(生年月日)です」

S社「ご本人確認が取れました。『心当たりのない請求がある』とのことですが、日時と内容についておうかがいしてもよろしいでしょうか」

「6/30と7/1に請求が来ていました。GさんとYさん(ともに社名)ですね。内容は記載されていないのでよくわからないですね……」

S社「かしこまりました。…………」

そこそこ長い保留時間の後、回答があった。

S社「具体的な利用内容が分かりません限り、こちらといたしましても不正利用として対応できかねます。つきましては一度お客様の方で両社に問い合わせしていただき、内容のご確認をお願いいたします。Gさんですと、サポートセンターの電話連絡先がございまして、番号は…………です。Yさんは電話番号が見当たりませんで、お問い合わせフォームのウェブページをお伝えいたします。URLは…………ですね」

「丁寧にありがとうございます。承知いたしました。確認が取れ次第、こちらに再度連絡いたします」


Φ


 一筋縄ではいかないようです。以前の問い合わせが即日対応していただけたのは、海外の利用で不正が明らかだったからなのかもしれません。
 次回、GとYに確認をとり、再びカード会社に連絡します。


続き↓
(まだ書いていません)
 

【クレカ不正利用との戦い】1. 不正利用発覚

 以前に海外から約$2,000ほど不正利用されたことのある私ですが(そのときは迅速な対応でなんの問題もなく返金処理をしていただけました)、今回、前回とは別のクレジットカードで不正利用され、その対応に約3ヶ月要した*1ため、自分や他の人が今後こういう事態に陥ったときの対処のための道標的な意味でも記録に残しておこうと思い、対応やその結果をまとめることにしました。

 一度に全て書くと弛れる気がするので、小分けして書くことにします。
 うまく終わらせることができるだろうか。


 8月某日。
 ATMでお金を引き出したのですが、残高が想像していたよりも遥かに低い。
 少しの違和感と不安を覚え、登録したクレジットカードの使用履歴を確認したところ、以下の請求が来ていました。
f:id:phidoa:20181106140901j:plain 
 しめて58,424円。
 払ったなら確実に気がつく額だし、そもそもこのクレジットカードの請求、普段メインで使っているカードではない方のなんですよね。今まで一度しか使ったことがないカードで、今もカード入れのスペースを埋めるためだけに存在しているくらいの置物で。
 そういうわけで、これは物忘れなどではなく完全に不正利用だなと判断した僕は、早速問い合わせをすることにしました。

続き↓
phidoa.hatenablog.com

*1:後にこの日数は少し意味を持ってくることとなる

2018-04-16

 更新が滞るのは現実が充実しているからなのかもしれない(、と思いたいだけなのかもしれない)です。

 5年連用日記というものをつけていたのですが、去年から完全に筆が止まってしまいました。昨年の一年間は、その大半を別のサイトに記録していて、毎日何をして何を学んだか、何を考えたのかを記していたわけなのですが、それもあって、わざわざアナログである日記の方に同じことを書くというのも無駄な気がして、日記をつけることをやめていました。その結果、また新たな年が始まっても、その流れを止めることができずに日記帳(「帳」と呼ぶには分厚い本ですが)を開けずにいたのです。ここでは日記を書くつもりはない、ということを以前書いた気もしますが、今もその通りで、ただ、日記を書く余裕がない、いわんやブログをや、という感じなんですよね。
 とりあえず、ここ最近これに関して思っているのは
・完全でなくても終わらせることに目を向けること
・自分「で」生きること
です。
 ひとつめはDone is better than perfect. という有名な言葉ですね。もう少し「ひとまず終わらせる」ということに気を配ったほうがいいのかもしれないです。多分、私自身完璧主義な部分があって、どうしても完璧にこなせないのなら初めからやらない、終わらせずになかったことにしたいと思うような気持ちがあるみたいです。それは、何かを無責任にしてしまうことに抵抗があるからなのだとは思いますが、もう少し、良い意味で自分勝手に生きていいのかもしれません。
 そういう意味で、自分自身でやりたいようにやるということを考えたほうがいいのでは、というのがふたつめです。他人の考え方やそこから現れる行動を変に気にしてしまうので、多少はそれを無視することも自身の健全な精神の保持にとっては重要なのかもしれません。もっと搾取することに気軽になれ、ということでもあるのですが、それについては話が長くなりそうなのでそれはまた後日。

 普段、感じたことや考えたことを遠慮なく言うほうなのですが、こうして文字に起こすことはなかなかしないので、今後のことを考えると、今のうちにかけるだけ書いたほうがいいのかもしれません。自己分析みたいなものではありますが、ただ自身の中で考えるだけではなくて、誰かに伝えるということも考えると、ブレインストーミングしておいたほうが楽だとは思うので。「誰かに伝えよう」と考えている時点で、他のことを気にしすぎているような気もしますが。
 もう3年前くらいから、「今年の抱負」が「自分のために生きる」系のもので止まってしまっているのですが、やはりそれが一番難しいからなのだろうなと思います。できる限り分割して考えないと、今の自分にはそれは難しいのかもしれないです。

 推敲していないのできっと読みにくい文章ではあると思います。ただ思うのは、自分のために生きるということと、「だから、推敲して他の人が読みやすいようにするといった配慮はしなくていい」と結ぶのは違うということであって、そのバランスがすごく難しいのだと思います。考えることがなければそれはそれで幸せなのかもしれないですが、その幸せよりももっと高次な幸せを感じたいと思うので、不満足でも今は十分なのかなと考えています。

2017-01-13

 ひと月経つのもはやいものです。
 今回、初めて年末年始に帰省しませんでした。価格のこともあります(年明けて少ししてからのほうが圧倒的に安いのです:14000円を切りました)し、直近で試験が控えているということもあります。生物系の知識が足りないみたいです。

 昔仲良くしていた異性が国際結婚をすることになったらしいと聞いて、ちょっとだけ過去をさっと振り返ってみています。自分に対していろいろなことをいろいろな人が言ってくれました。助言だったり世辞だったり。そこに「永遠」とか「ずっと」とかいう単語があったこともあるのだけれど、まあそれは今となれば「言えただけ」ということなのかもしれません。少なくともそのときには、そう思っていたというか、そういう決意があったのだと思いたいです。親や教師などの指導者や、周りにいた仲間(「仲間」と呼べるかはわからない!)があってこその今の自分が存在していると思うと、「育てられている」という感じがします。同時に、そういうものがなければ、私は、ヒトは、人間になれるのだろうかと考えてみたりもして。
 実際に出会ったひともそうですが、インターネットなどから知り合ったひとたちは今どうしてるのだろうと考えることもあります。ちゃんと(「ちゃんと」?)生きているのだろうか、Twitterやブログで関わりを持って関心を持ってくれたひとは今の私にもまた同じように関心を持ってくれるのだろうか、なんて他人のことばかり気にしています。

 ここ数年、年始めに「目標」らしきもの(年契約の座右の銘に近い)を立てているのですが、今年も例によって立てることにしました。
「自分のために生きる。」
 それがどういう文脈で使われてどういう解釈をされるのかはわからないですけど、とりあえずこれを念頭に置いて行動をしてみることを増やしたほうがよいのではと感じました。
 本年もよろしくお願いいたします。 

悩みの種の明かせない夜

 明けない夜がないのと同じように、暮れない日もない。


 自分は実際は、ある側面において「手品(奇術、マジック)」のことが好きではないのではと思うようになった。
 小さい頃からそれに対してそれなりの興味があって、数年前からしっかりと関われるような環境にいることができて、ああ自分はマジックが好きなんだなと思っていた。そうなのだけれど、マジックと自分との距離が近づくようになってしばらくして、次第に違和感を覚え始めた。自分の演者として望むこととはなんだろう、観客に対して望むことはなんだろう……。そんなことを考えていくうちに、僕の「やりたいこと」に対する考え方がぐるぐると渦巻いていったのだ。練習していて楽しいと思うこともあるし、誰かに見せて良い反応が返ってきたときは本当に嬉しいしやっていてよかったと思う、のだけれど。

 日本で広く広まっている奇術の心構えとして「サーストンの三原則」がある。

サーストンの三原則

  1. 披露する前に現象を説明してはいけない。
  2. 繰り返してはいけない。
  3. 種明かしをしてはいけない。

「サーストン」というのは、ハワード・サーストン(Howard Thurston ,1869-1936)という、アメリカのマジシャンのことであるが、彼自身が三原則としてまとめたわけではない。マジックにおける「意外性」を損ねないようにするための配慮でもあり、演じるものは知っておいてよい考えである。
 あえて「知っておいてよい」という表現にしたのは、この原則が全てではないからだ。例外はある。先に何が起きるかを言ってしまうこともあるだろうし、何度も繰り返すものだってあるだろうし、種明かしだって、するかもしれない。
 マジックや手品という単語でWeb検索をかけると、ほぼ確実に「種明かし」もサジェストされる。それだけ見ている人は種を知りたがっているのだと思う。YouTubeなどでは、いろんな人が演技動画(それを「演技」動画と呼ぶのかはひとまず置いておく!)をあげている。それらを見てみると、ある一定の技術力のある人は、種明かしをしていないことがほとんどだ。逆に言えば、種明かしをしているものは低質なものが多い。ここまで言うと種明かしをしている人を非難しているように見えるのだが(僕も動画をアップロードしたことがあり、ものすごく酷く非難されたこともある)、僕は、本当のところは、種明かしをするという行為自体が悪いとは思っていない。もちろん、僕は基本的には無闇に原理や手法を教えたりはしないし、マジックをしている他の誰かに積極的にやり方を教えてくれと言うことも避けているつもりだ。本当はすぐにでもそのトリックを知りたいという気持ちはあるのだけれど、「原則」のことが頭をよぎって躊躇ってしまう。これまでの人生を鑑みるに、僕は「規則」に弱いらしい。限界まで自分の頭で考えてみて、それでも分からなくて、かつ自分がいつか演じてみたいと思ったときに聞こうとするスタンスでいるつもりだ。

 そういうわけで、種を明かしてはいけないと言われている中で同時に、なぜいけないのだろうと思い悩んでしまうこともある。知って幸せになれる(少なくとも知る前にそう考えている)なら、それでいいのではと思う。まあ、プロがそれでお金を貰っている以上、少しでも妨げになるようなことはやめるべきだ(少なくとも、演者や客が望んでもいない種明かし・ネタバレをするのは誰も幸せにならないというのは容易にわかる、これは何に関しても同じだ)というのはわかる。
 伝統芸能や音楽や絵画にありがちだと(勝手に)思っているのが、その鑑賞の仕方に何らかの(ときには暗黙の)ルールが存在するということだ。予備知識があったほうがより深い理解を得られることもしばしばあるだろうし、「正しい」見方を知っていればより楽しめるだろうなと思う。初心者に厳しい部分があると思いながらも、そういう性質なんだから仕方ないと諦めている部分もある。学生の演劇や演奏会などの発表会に来るのはその関係者ばかり、といったことが本当に多いと思う*1。本当に多方面からの来場を望むのならば、もう少し間口を広げてもいいのでは、とも思う。勧誘に関してもそうだ。その性質上、マジックに関しては、よりクローズドになりやすい。
 種を見破ろうとしながら見る人は、教えれば満足するのだろうか。見破れれば満足なのだろうか。別に勝負しているわけではないのにそういう態度で見られると、なかなか難しい。そんなに知りたいなら教えてやるよと、それで勝手に勝ったと思うならそれでいいよと、思いたくなる。勝負させないように、単純にマジックそのものを楽しんでもらえるように演じられるような能力が、僕にはまだしっかり備わっていないだけのかもしれないけれど、ときどきつらくなる。演者の都合を観客に押し付けるのは違う気はするのだけれど、最低限のルールというか、「こういうふうにすればこういうことになる」みたいなことを考えてほしいというか、まあ簡単に言えば「思いやり」がほしくなったりもする。「思いやりがほしい」なんて、自分勝手だとは思うけれど。
 種を知っていればそれだけでもう見なくていいと思われるようなものにはしたくない。音楽や小説や演劇や映画だって、結末がわかっていてももう一度触れたいと思うことがあるように、マジックでもそうであるほうがよいと思っている。大事なのはそこにあるトリックやテクニックではなくて、声のトーンや間だったり、構成だったり、見る人の気持ちを考えることだったり、そういったところにあると思う。そういう意味で、僕は本当は、全体として見た「マジック」にあまり関心が持てないのかもしれないと思ってしまった。僕の好きだったのは、そこにある不思議に対して解明しようと熱を注いで考えて、実践して謎が解けてく、そういう部分だったのではないか。そうだとしたら、それは決して「マジック」などではないと、考えてしまった。それと同時に、矛盾しているようにも聞こえるけれど、最近では、テクニックをあまり必要としないものを選んで演技し、それ以上に普段するような会話をよくしながらマジックをするという形式で人に見せることが増えたように思う。もちろんそれは友達に軽く見せるといった場ではなくて、マジックを見に来た見ず知らずの人に楽しんでもらうために設けられた場でだ。
 多分、僕は「マジック」というものに複雑なトリックや高度なテクニックを求めていなくて、同時に、複雑なそれを解き明かそうという気持ちがあるのだと思う。

 種を知りたいと思う人の気持ちの源泉が何なのか、僕は知りたい。知らないままでいられる気持ちも聞いてみたい。
「知らないほうが幸せだ」とはよく聞くが、僕はそうだとは全く思わない。ミルの言う通り「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである」と思っているからだ。知ってなお、その事実を受け止めて承認したい。それだけだ。その点においては僕は絶対に逃げない。

 何に対してどう思っているかわかる、それだけでも、関わってきてよかったと思う。

*1:自分はその点に関して興味の幅が広くフットワークが軽いと思っているので、各種公演や展示などがあることがあればぜひお誘いください、喜んで行きます

2016-12-15

おひさしぶりです。

後日まとめますとかなんとか言ってそれきりで、完全に更新が滞っていたのは、なんだか「くらい」部分を感じてしまいます。

まあとにかくいろいろありました。本当に。

いま、モバイル端末で更新してみているのですが、それを確認してから、パソコンの方からいろいろ書けたらと思います。
ではこのへんで。

2015-06-07

 帝京大学に行ってきました。部活動の大会。

 広くて綺麗でびっくりしました。エスカレーターがあって、なんだこれは学校か、と思いました。お金がかかってるということなのかもなあ。

 体力の無さを実感。最近少し筋トレをサボりがちだし体重も減ってきてるから、きちんと食べて運動していかないとだめです。肉体的にも精神的にも。