反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2018-10-14

 情けなくなりました。
 あまりにも自分の心に余裕がなさすぎる。そもそも心があるのかという話は置いておいて、こんなにも駄目だとは思っていなくて、誰かに送るメッセージが推敲のない、思慮のない乱暴な書き方になってしまっていて、それを時間のせいにして。完全な悪循環だ。

 でも思うのは、逆に今まで気を張りすぎていたんじゃないかって。むしろ大多数はこの乱暴さに慣れている可能性もあって、それはそれで恐ろしいことではあるけれど、だからって自分のやり方を誰かに押し付けたり、自分が感じてきたことを感じさせようと思ったりはしたくなくて。

 我々はこんなに苦労してきたのだから、未来世代も同じように苦労すべきだと考えるようなあり方もあって、少なくとも自分はそんな思考は受け入れられないと思っている。
 楽できるなら存分に楽していいし、その余暇で更に発展してくれと思う。ただひとつ、なぜ楽になっているかを忘れさえしなければ。

 話は戻って、僕はもっと僕の乱暴さに慣れるべきなのかもしれない。

 過ごしやすい気候になって、芝生一面開けた場所で弁当を広げて団欒する家族を見たり、寄り添い合うカップルを見かける。彼らが穏やかに見えるのは、僕が穏やかじゃないのか、穏やかだったからこそそれを感じ、いま穏やかでない自分に怯えているからなのか。

2018-10-13

 伝わるように文章を書くこと、私は比較的得意な方だと思っていたんですけど、それは慢心でした。

 おそらく正しいとしても「特に伝えたい人だけにそれとなく伝わるような文章を書くことができる」程度なんだと思います。私自身、ものすごく冗長に文章を書きがちだったり、何が言いたいのかわからない文章を書きなぐったり、意味ありげな雰囲気を醸すだけですっからかんなことを言ったりすることは多少は自覚しているのですが、やるべきときにできていないのならこういう戯れは良くないですよね。良くないというか、単に「ちゃんとやれない」だけになってしまう。

 誰が読んでも(ここでは本当に「どんな人でも」ということを言っているのではありません)分かる文章、分かる意味、理解できる流れで何かを書くというのは、自分が知っていることをどれだけ順序立てて言えるか――それは自身の知った順ではなく、誰かに伝えるためのより良い流れとして――が非常に大事なんだと思います。
 自分にとってやらねばならないことが一杯でキャパシティが限界であるとか、だから時間がなくて優先順位をつける余裕もないとか、そういった理由があって落ち着いて推敲して書いて、それを読んでまた書き直してという作業が疎かになってしまっているのかもしれないけれど、その事実が既に「だめ」なのであって、そういう状況を作ってしまった過去の自分に挽回のチャンスが与えられていると考えるべきで、だからこそこういう時こそ手抜かりなくやるべき、だとは分かってはいるんですけど。
 やっぱり悔しいですね。それなりに自信があったことが、ちょっとしたきっかけで崩壊してしまうほど脆いものだったとわかるのは。「そう考えているならそう書かないとわからない」と、私自身が日常の中で大事に抱えている信条を、自分自身で守りきれずに潰れてしまうのは。
 考えたり、考えていることを伝えたりすることに関して、忘れずに、そして何よりも大事にして生きていたと思っていたんですけど、そうでもないみたいです。それだけ余裕がなくなってしまっているということなのかもしれませんが、それはおそらく甘えだと思うので……。

 何かを言うのは何らかの反応を求めているからだと思っていて、それを意識してしまうと、誰かが何かを言うたびに「この人は一体何を求めているのだろう」と考えてしまいます。本当は、純粋な発露もあるのかもしれなくて、いつからそうは思えなくなってしまったんだろうとさびしくもなります。この「さびしさ」だって、何かを求めるようなことは意識していなくとも、自身の認識しえないどこか深い部分で希っているのかもしれないのだ。気持ち悪いなと思いつつも、それはそれでかわいげがあっていいと思う瞬間もあるのだと思う。

 何が言いたいんですかね。
 考えずに書いてたんじゃそりゃわからないし、何も伝わらないのは当然で、だから、しっかりきっちり、考えていきたいと思います。
 おそらくこういう生き方が一番自分を活かせると思うので。

2018-10-12

 電車で前にいる人の持つスマートフォンの画面に「いざTwitterでつぶやこうとしてもつぶやくことがない人へ!」みたいな記事を読んでいて、手段と目的がどうなっているんだと思いました。逆パターンなんですかね。とりあえず何かお題を与えられて書いていれば、そのうち自分からでもアウトプットできるようになる、みたいな。
「書きたいことがない」状態が、もしかすると「書けることはたくさんあるのにそれを表現する能力がなかったり、それがあると気づく能力がなかったりする」状態なのかもしれません。それならそこを鍛えるしかないとは思います。ただ、そうではなく単に何か書いて注目を浴びたいが書きたいと思うことは何ひとつないしそもそも書くことが好きでもなんでもないなら、無駄だと思うのでやめたほうがいいです。

 画面を見ていたその人は頷きながら熱心に読んでいたので、そういうのが好きな人なんだなとは思いました。最近特にブロガーだったりなんか変な(知らないだけです)人たちが多いので、どうもそういうのはうさんくさいんですよね。
 伝えたいと思ったことを、伝えたい人が伝わってほしい人のために書いたものを読みたい。

2018-10-11

 やっぱり中身がないのに続ける必要もない気はします。
 今月に入ってからそれなりに更新してみてはいるのですが、そもそもその理由というのが、なんとなく、最近ある程度の長さを持った文章を読む能力もしくは忍耐力が落ちているのではないかと感じてしまい、何とかしたいと思ったからで……。そういうわけで文章を書いたり読んだりしているのですが、少し経った今、他の理由なのではと思いはじめていて。
 おそらく、大きな理由は、読むのに必要な前提知識や常識が少し足りていないからなのだと思います。それで読むスピードが落ち、理解度も落ち、疲弊しているのだと思われます。
 でもまあこれはある意味で仕方ないというか、通る道である気がします。ちょっと耐えて反復していればなれるものなのではないかと。

 今日も体力がなくなってきたのでそろそろおやすみします。

2018-10-10

 今月始まってから、ほぼ毎日8時過ぎに家を出て日付が変わる頃に帰宅しています。
 健康的なのか大変で不健康なのか。

 大変です。やることが多いのと、一晩置いて練ったほうがいいものがあるのとでややいっぱいいっぱいです。他に勉強したいこともあるんですけど、なかなかそれに注力できません。月末は従兄弟の結婚式で帰省しなきゃいけなくて、その飛行機も予約しなきゃいけないんですけど、時間を考えたり安いものを探したりする、そんな時間はないんですよね。

 家では寝てるだけです。
 リズムが作れて良いと言えば良いんですけど、これが持続するかは不安なところです。

2018-10-09

 タイトルを決めて、テーマを決めて取り組まないと話が発散しすぎてまとまらないですよね。
 ブログもそうですし、研究だってそう。

 ある程度までいったら、一旦終わりを見据えるというのもやはり大事なのです。長期的に考えるってやつ。後ろを固定してから起承転結を組むとすっきりするんですけど、ここで終わっていいのかと悩みもしますよね。

 やっぱりそこは割り切らないとだ。

遺体解体

 流れ星に願い事をすると叶うと言われていたのは、流れ星を見つけるようなふとした瞬間でも考えているほどの強い気持ちのあることならば実現するだろうと思えたからなのだと思う。


 矛盾しているように聞こえるが、やりたいことだけをやることが本当に「やりたいこと」ではないということはあり得ると思う。それはつまり前と後ろで「やりたいこと」が示す範囲が違うから起きているだけの単なる言葉上の問題なのだが、それについてここで今一度考えておくべきであると思う。

 適当に思いつく「やりたいこととして挙げられそうなもの」を挙げていく。やりたいことと言うよりはもはや単なる希望であったり夢であったりするかもしれないが。

 お金を稼ぎたい。稼いだお金で豪遊したい。稼がなくてもいいほど、買いたいときにお金のことを気にしなくていいほどお金を得たい。
 仕事を円滑にこなしたい。多様な能力を身につけたい。やり遂げた達成感を味わいたい。良く評価されたい。信頼されたい。
 速く走りたい。大きな負荷に耐えたい。体を思い通りに動かしたい。良い体つきになりたい。健全な肉体を得たい。健康でいたい。丈夫そうだと思われたい。試合に勝ちたい。勝って喜びたい。
 良い人間関係を築きたい。困ったときに助けられたい。切磋琢磨したい。多くの視点を得たい。
 好きな人と一緒にいたい。嫌いな人を作りたくない。もしできてしまったら解決したい。合わない人から逃げたい。存在を否定したい。
 素敵な景色を見たい。美味しいものが食べたい。感動したい。多くの体験で感性を養いたい。
 賢くなりたい。不思議な現象を解明したい。わからないことがわかるようになりたい。

 挙げたらキリがなくて、遂行もしていないのでまとまりもないけれど、まあ、結局のところこういうのは何でもいい。
 こういう望みがあるとして、この望みが達成されたときに、この望みのみが達成されるのだろうかということが問題であるのだと思う。お金を稼ぐにはそれなりの別のコストが必要であるし、勝って喜ぶということは負けて悔しい相手を生むということだ。何かを知って嬉しいと思うことがあると思う一方で、何かを知ってしまって悲しくなることももちろんあると思う。角が取れるようになるまでに、どれほど周りにその角をぶつけてきたのかを考えなければならないのと同じで、何かが起きたときには、いつもそこには番の形で存在していることを忘れてはいけないのだ。忘れる以前に覚えていないのは論外だが。

 人によって望みが違うので、解決の仕方も違う。問題が起きたときに逃げたほうが楽だと考えて実行する人もいれば、立ち向かう人もいる。そこでやっぱり逃げてよかったと思う人もいれば逃げなきゃよかったと思う人もいるし、立ち向かった結果として問題が解消されてよかったと思うこともあれば逆に問題が悪化したり自身を苦しめてしまうことになって後悔してしまうこともあるだろう。
 こういうとき、何がしたかったのだろうと、思う。

 僕がまだ小学生だった頃、バレーボールのクラブチームに所属していて、その引退試合の最後の得点となったとき、コーチが言ったことを今もまだ覚えている。
「最後にどういう形で終わりたいか、どうなったら後悔するか、どうなったら清々しい気持ちで終えることができるかを考えて、最後のプレーをしろ」と。
 まあ俗にいう「やらずに後悔するよりやって後悔しろ」という類の言葉だったのだろうが、ときどきその時のプレーは「誰にとって」「正しい」ものだったのか、考えてしまうことがある。自分勝手な行為ではなかったか、それは他のチームメンバーは認めてくれるのだろうか、そんなことが気になってやまなかった。チームプレーとはそういうもので、全員の意思を考えないとうまくまとまらないのだと思う。僕にとって綺麗に終わる形でも、他の誰かから見たら曖昧な幕開けであることは往々にしてあるのだが、それでいいのかと思ってしまう。もっと自分勝手になるべきなのか、このままでいいのか。

 傷つきたくはないが、長期的に見ればそれで良かったのだと思うこともある。逃げることでそれが見えない傷となることもある。原因のわかっている傷は原因がわかっているので、治そうとすることや受け止めることができるが、原因不明の傷や、それを傷であると気づかない翳りに対しては、僕らは無防備で、何もできない。ただそれが潜伏していて大きくなって現れても、そのときには増幅してしまってわけのわからない苦しみになっているのだ。
 逃げてしまうのもそうだし、嘘をついてごまかすのもそうだ。
 ただ、苦しいのは、逃げずに立ち向かえば、本当のことを言えばそれが回避できるのかということだ。一生引きずるほどの痛みを負ったり、引き返すことができないつらい状況になったりすることもある。

 どうしようもない。だが、どうしようもないということを知って、今できることをやること、今の自分が考えられる限りのことを考えて、実行して、それで起こったことに対して受け入れるということならできる。思うに、一番つらいのは、「あのときああすればよかった」ではなく、「あのときの自分ならできるはずの思考を、一瞬の苦からの退避行動や甘さでやめてしまったことで、今この状況を引き起こしてしまったこと」であるのではなかろうか。その時にそうできなかったことが分かっていれば、そうすればよかったという幻想でしかないたらればに苦しめられることを避けられるだろうからだ。
 こういう考えも、「何も考えない人」にとっては意味をなさなくて、そもそも真に苦しみを避けたいというよりは今の苦しみを表明したいだけの人には馬の耳に念仏であるのだ。楽しいことも苦しいことも、全部言いたいだけで、やりたいだけ。したいことだけして周りのことも後のことも何も考えず死ぬ。そういう人間の形をした何かが存在していて、僕らはその存在も考慮して生きねばならないのだろうか。

 どうすれば短期的な未来と長期的な未来において良いと思えるような選択にしていけるか。それは自分自身で考えを捏ねるだけではだめだ。
 周りの人たちや、「何か」に対してどういう振る舞いであることがより自分を大事にできるのかを見る必要がある。
 選ばねばならないのだ。そして思うのは、非道でも平等であるならば、それで一貫していれば自分にとって良いのではないかと。きっと恐れるべくは、自分を安定に保てなくなってしまうことで、一貫性を失うことで、軸を失うことだ。

 これは納得であり表明であって、誰かを動かすための主張ではなく啓発でもない。

 もちろん主義に反する「何か」の存在を認めたくはないが、在るのは事実であるから、受け入れなければならない。それは正そうとする在り方でも良かったが、全てが思うようになるわけではなくて、だからこそ名状しがたい「何か」であるのだと思う。悲しいが一種の諦めでもあるのかもしれない。
 根こそぎにしてしまえ、絶やしてしまえとどこかで思ってしまうし、内心きっとそうなればいいと望んではいるのだろうが、力不足だったのだ。それは受け入れざるを得ない。

 話は戻るが、やりたいことを考えたときに、どうしてもそれが周りにとって「なされたいこと」であるかを、僕は見逃すことができないのだ。大抵の人は、誰かを殺したいと思いはしても考えるだけで実行しないのと同じだ。自分を正しく表示できるスタイルであり、正しく評価される基準が保存されている限り、その範囲内で自由に柔軟に調整することが良いことだと信じてやまなかったし、天秤にかけて何かを選ぶことだって、誰だってやっているだろうが僕もやってきたのだ。
 ただ、天秤にかけたもの、天秤にかけられるほど信頼してきたものに無下にされるのがつらいという、感想なのだ。
 信頼とはそういうものなんだろう。僕が「そうしたかった」だけであって、その見返りや報いを得たいと思うこと自体、卑怯なやり方だったんだろう。ミカゼちゃんみたいに、残酷であろうとしても同じようにそれに疲れるのかもしれない*1が、少なくとも鏡であり続ければ、僕は僕であることを保てそうな気はする。
 自分にとって、自明なものとしてやってはいけないことであるからやりたくてもそうしない殺しと同じようなものが多すぎるのかもしれないし、恐ろしいが逆に言えば、その程度までに多くの人がやってはいけないと確信している境界が、自分にとっては少し緩いのかもしれない。
 やりたいことを考えるほかに、やってはいけないことは何故やってはいけないのかということにも触れたほうがいい気がしてきた。これは、したいことではなく、しなければならないことであるはずだ。

*1:模造クリスタル、金魚王国の崩壊、2008~

ひのないところに立つ煙

煙が立つときに常に火があるわけではない。
つまり「¬煙が立たない→¬火がない」は偽。
対偶も偽なので「火のないところに煙は立たない」は偽。



 恥ずかしくも懐かしいものを掘り出してきました。
 この頃から、いやもっとずっと前から、対偶で考えることを積極的に実践する癖がついてしまっているように思います。
 便利です。便利ですが、普段の会話で使われるルールは、すべてが「AならばB」へ置き換えられるものではないことに気をつけないといけません。論理学的なそれの適応範囲はかなり狭いはずので、うかつに使っちゃだめなんですよね。過度な敷衍や限定が危険だっていう話です。

 あれは駄目とかこれは危険だとか、だから悲しいとかよく言っている気がしますが、そういう厳密な(?)ありかたを日常に持ってくるのはもしかしたら違うのかなと思うことも増えてきました。実は毎日そんなふうに意識して生きている人ってあまりいないんじゃないかって。
 冗談が通じない人だとたまに言われます。おそらく、冗談が通じないというよりは、どうでもいいことを信じることにしているだけだと思うんですよね。基本的にありがちなギャグの文脈を拾ったり察したりするのは得意な方だと思っているので、単純に、特徴的な形式を持たないありかたの嘘で笑いを取るタイプの冗談が刺さらないということなんだと思います。真に受けすぎとも言えます。自分に非があるのか気にしていたこともありましたが、何をもって非とするのか、何が良くて何が悪いのか、曖昧なまま考えるのは無駄なのでやめました。
 案外みんな、見過ごしたりやり過ごしたりしている部分が多いのかもしれません。そして私自身も例外に漏れずどこかで何かを見落としていて、きっとその差異ですれ違っていくんだと思います。年を取れば取るほど積み重なっていくそれは、人によって積み上げ方も違いますし、絶対量も違います。是非を語ることはしたくないですが、共通点が多いほどお互いを理解しやすいのだろうと考えているので、少なくとも自分は、なるべく自身の解釈を途切れさせないようにしていきたいと思っています。それは「スルースキルがない」と叩かれて炎上することなのかもしれませんが。
 何が自分にとって大事なのか考えたほうがいいとは以前もいいましたが、上で言った意味では、自分が自分であるには必要なものなのだと思います。そういうやり方で自分や他人、周りの人や物をわかりたいと思ってしまったので。ただ最近思うのは、そこに重みづけをしろということなのだろうということです。感覚が過敏であることを受け入れつつも、そこに優先度をつけるべきであって、見過ごすとどれくらいまずいのか、自分にどの程度悪影響があるのか、率先して見るとよいものは何か、きちんと考えて「見る」べきなんだと思います。思考して理解する速度が大きければ気にせずにいられたのでしょうが、自身を取り巻く環境因子は自身の能力の容量をゆうに超えているのは自明なので、何を優先するかを見直すべきでした(それは、何を選んで何を捨てるかという二分法から抜け出せるのである!)。

「火のないところに煙は立たない」というのは、論理と言うよりもむしろ感情に近いのかもしれません。意見というか考え方というか、そうであってほしいという希望というか。論理であれば気持ちの問題ではなく、感情が主題なら理論立てて話をすることができないとしてしまうのも、網羅的仮設の誤謬とやらであるのかもしれないし、もっとファジィに考えて、可能性のスペクトル全体を見たほうがよさそうです。グラデーションを追いかけるというのは果てがなく、いつまでも続くグレーには辟易しそうですが、解像度を上げるには必要だと思います。逆に言えば(対偶らしく言えば?)、その必要がないならしなくていいことですし、したくないならする必要はないことなんですよね。そういう意味で、これは私自身のそうしたいという感情であると言えるのだと思います。

2018-10-05

 絵に描いたような三日坊主です。あれ、絵に描いているなら現実ではないのでは。

 朝のコンディションはなかなか安定しないみたいです。体調が変われば起床時刻もぶれますし、身支度にかかる時間も変わります。当日の予定だってそう。だから朝のルーティンは、内容は固定すれども時間に縛られるのはスマートではないですよね。
 
 そもそもその内容が達成されていませんでした。

 今回はスマートフォンから投稿しています。今までは携帯端末だとメール送信によっての投稿しかなかったので使い勝手が良くなかったのですが、これならかなり使いやすく、ハードルが下がりました。

 実はこのスマートフォン、厳密にはスマート「フォン」ではないんですよね。見た目だけスマートフォンSIMカードなしの本体のみなんです。電話はガラケーを使っています。ガラパゴス化してしまいました。今はなきdocomoのDシリーズなので、完全に生きた化石です。もう10年ほど使っているのではなかろうか。
 そんなこんなで実際はタブレット的な扱いなのですが、説明して話をややこしくするのも面倒なので、スマートフォンですと言ってます。端末自体はスマートフォン用の(?)物なので間違いではない。
 話者と聴衆との間で定義が違っていて、それをお互いが気づかずに核心に触れる段まで来てしまうということは非常にセクシーな状況なのですが*1、ありがちなことなんですよね。まあ、話し合うということの本質は、そういった定義について確認し合うということにあると思っているので、当然の帰結だから何も心配するなと言われればそれはそうなんですけど、定義を見直すという作業は、年を取れば取るほどつらく苦しくなってくると思います。今まで培ってきた土台を壊されるのは怖いですからね。自身の土台を盲信しすぎであるという説もあります(「説がある」という表現、かなり内輪な使い方だと思います。私もそれに流されてしまった説があります)。

 ぐだぐだ言っていたらそろそろ時間がまずそうです。と思ってしまって、ああ時間の束縛からは逃れなれないなと、少し諦めが混じったような笑みがこぼれてしまう朝でした。

*1:「やばい」ときにこの言い方をすると何だか気が楽になりむしろわくわくしてくる気がします