反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

ロンリー論理


「Pであり、かつ¬Pである」ことはできない。どちらか1つだ。



 すごく当たり前の話なのだけれど、何かであると同時に何かでないことはできないんですよね。それは、選ぶという行為が、同時に、除くという行為であるということだと思うんです。そういう意味で、選ぶべきものを自分で選んでいけるというのは凄いことだし素敵なことだと思います。人生における「問い」とは、学校の勉強のような解内在型ではなくて、解外在型・解不在型であることが多くて、だからこそ何が正しくて何が間違いであるかを判断していくことは難しいです。しかし、だからといって両者に優劣があるというわけではないと思うのです。問いから解を復元可能ならしめる根拠がある問題に取り組むことは、決して自慰的行為ではありません。それは来るべき解外在型問題の解決への不可欠な訓練になっているのです。答えの予め定まっている問題を解くことのみに終始することには、たしかに問題点があるでしょう。ですが、解内在型の問題ですら十分に訓練を積んでいない者が解外在型の問題解決に立ち向かっていけるのでしょうか。
 問題解決に際しては、なにも一人で行わなければならないというわけではありません。誰かと力を合わせた方が、より早急な解決へと向かうことが多いことは言うまでもないでしょう。ただ、一人で立ち向かわなければならないという問題も確かに存在します。誰の手も借りないで困難を乗り越えていくのは大変なのかもしれないけれど、その分乗り越えた時に得られる者は大きいのではないでしょうか。誰にも共有されないかもしれないけれど、だからこそ独占できるものというのも大事なものなのかもしれません。

 人はしばしば問題に対して感情的になり、非合理的な行動をとってしまうことがあります。論理オンリーで動くということは殆どないと言ってもいいかもしれません。自分や他人の不合理を、単に排除しようとするのではなくて、上手く付き合って向き合っていくことも必要なのでしょう。逆に、たとえ孤独になろうとも、自身を貫き通すべき時がくることもあるのでしょう。

「一人」とは物理的状況であり、「孤独」とは精神的状況であるように思えます。孤独と孤立も似ているけれど、両者は不可逆的な関係にあります。一人を楽しんでいる状況から、次第に楽しみが失せて心細くなり、払拭しようとする。この精神的力動を逆進させるには他者が必要であるから、孤独から孤立に移っても、逆はないのです。

 孤独とは「一人でいられる能力」なのかもしれません。
 ただただ、孤独に強くなりたい。そう強く思います。
 その思いがたとえ非論理的であったとしても。