反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

曖昧的心鏡


 弱い光は、かえって境界を不明瞭にする。



「曖昧表現は逃げだ」という言葉を聞いたことがある。確かに、逃げるときに曖昧な表現をする人をよく見かける。曖昧な言葉は、便利であるから使ってしまいがちだ。「どうも」という言葉があるが、これはとても使い勝手が良い。というかとりあえずこの言葉を言えば何とかなると言っても過言ではないだろう。朝、人に会って「どうも」。昼でも夜でも「どうも」。謝礼のときに「どうも」。謝礼に対して「どうも」。
 曖昧もとい絶妙な言葉だ。ここに言語の深さを見ることもできるが、そこには翳りもある。言語は、その使用状況(シチュエーション)で意味が変化する。正確に読み取れなければ誤解を招いてしまう。また、発話者の影響も受ける。ある人のある言葉が、別の人のそれより信憑性があると思えたり、逆に疑わしく思えたり。面白く思えたり、つまらなく思えたり。「この言葉が」ではなく「この人が言うから」の思考になる。人格(パーソナリティ)が付随することが悪いというわけではないが、言葉の持つ価値が使用者によって相対的に変化してしまうのはどことなくすっきりしない。
 時の経過による意味変化というのもある。例としては「ツンデレ」などだ。「ツンデレ」についての詳しい話は割愛するが、時の経過による感情変化を表す語が時の経過による意味変化を受けたというのは、面白い話である。
 意味が次第に変化し派生して、以前とは違うもののようになった言葉もあるが、その中には市民権を得てきているものもあるようだ。今日では、文法的誤りを孕んだ、俗にいう教範(マニュアル)敬語や若者言葉も「日本語」として認められつつあるため、一概に間違いだとは言えず、そう見做すことは偏見になりうるのだ。法分野における「権利の濫用」を濫用するように、「偏見だ」という偏見も、きっとあるだろうけれど。

 以前の事実のみが正しくて唯一無二だと考える紋切り型(ステレオタイプ)ではなく、そういったことを取り入れ、受け入れるのが大人なのかもしれない。いや、何をすれば大人かなどと考えてしまうようでは、まだそれなりに幼稚(ガキ)なのだろう。大人ならば何をしても大人であるのに。高校生という立ち位置は、子供ではないが大人でもないという周縁的(マージナル)な所であり、無限の可能性を秘めているが、それ故に敢えて無限分の一の存在になって自身の無限性が潰えてしまうのを恐れて何も出来なくなるという、先延ばし(モラトリアム)人間である。身近なことさえ解らないのに、時に世界を語ろうとして悟った顔をする。それは迷宮世界にいる自身の自我同一性(アイデンティティー)を、世界を語ることで確立するためなのかもしれない。「語る」という行為は、発話行為共時性と文脈依存性を超えて、書字行為の通時性に近づくものであるから、「話す」と「書く」の間に位置する第三の意思伝達(コミュニケーション)行為であると言えるだろう。物語行為は、個人的な思い出を語り伝えることでそれを共同化し、その物語(ナラティブ)は世代間意思伝達(コミュニケーション)のための装置として働く。こうして、共同体の記憶、すなわち歴史を生成する「語り」は、自己表現の方法になりうるのである。

「字は心の鏡」という言葉があるが、今日び言語というものは、使いこなすには些か複雑であり、なかなかどうして鏡は輝きをまさないようだ。光を反射させるには光源が必要だという、そんな当たり前の事実に気付くのが少し遅かったからなのかもしれない。