反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

濃い故意の恋よ来いと希う


 12月と言えばクリスマス!
 クリスマスと言えば……色々ありますよね、色々。



 行事をどう過ごすかについてはそれぞれ様々な態度があるかと思いますが、やはりこの時期というものは「分け入っても分け入ってもカップル」ってやつですよ。自慢気な視線に晒されてしまいます。まあこういうのは特定のイベント時に限ったことではなくて、日常茶飯事であるのだけれど。
 別にそれがどうということではありません。
 でも、どうしてそれらに対して妙に腹立たしいような、煩わしいような感情になるのでしょうか! 単純に「それは自分が恋がしたいからだ」と言う人もいるのでしょうけれど……。あれです、自分としては電車やバス内での通話に対して持つ感情に似たものだと思っています。隔絶された空間の中で、誰かが誰かと繋がりを持っていて、でも、自分はそうでないことを認識して不安と苛立ちを覚える、っていうやつ。しかしまあ、絆っていう言葉がその字として表すように、相互束縛って感じですよね。え? 絆は「ほだし」という読みで「人の心や行動の自由を縛るもの」の意味があるんですよ。
「さっき誰と話してたんだよ」「男の絡みは要らないから」「いつもいつまでも一緒だよ」「仕事と私、どっちが大切なの!?」
 相手を縛るどころか、自分の領域も狭くなってしまって。
 でも、それでも、そうなって得たものは多分、大きいものなんだろうなって、疎い人は感じました。

 愛も恋も色々な形がありますから、ま、いいんじゃないの?
 漢字の覚え方は、愛は真心、恋は下心。実際は分かんないけどね。
 恋なんて言わばエゴとシーソーのなんとか、なんて言いますから。言わないか。
 勘違いと思い込みから始まるとか何とか。

 最後まで態とというか、完全に自分を演じきって死ねる人が良いかも、とか、思ったり。もう本当完膚無きまでに完璧な。それは悲劇でも喜劇でもよくて。キャラが濃く見えるのはむしろ、自己の中の他を薄くできるからであって。

 別に、来いとは願わないけど。
 そんな人がいることを、なることを、もう無理だけど、希いたい。