反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

Yes, I am. Know I myself am.


 自分らしくありたいと思うことがあるのですが、自分らしさというものが何なのか、それがよく分かりません。自分がいかに自分であるかは、自分自身で決めていいものなのかどうかすら、分からずにいます。



 以前、カウンセラーに「君は、『私は』が少ないね」と言われたことがあります。今考えてみれば、確かにそうだったのかもしれないし、今もそうであるのかもしれません。いつからか、曖昧な態度をとることが多くなってしまっていたみたいです。「ミステリアスで何を考えているのか分からない」と言われることが少なくないのですが、自分でも自分のことを理解しきれずにいるし、そもそも何も考えていないのかもしれないし。

 しばしば考えることがあるのは、「一人称」についてです。一人称と言えば、「私」「僕」「自分」をはじめとして、「俺」「あたし」「あたい」「わい」「おいら」「おいどん」「おら」「うち」「わし」「わー」「拙者」「それがし」「我輩」「麻呂」「余」「小生」「あっし」「あちき」「わらわ」「わたくしめ」「(自分の名前)」「先生」「本官」「当局」など……挙げ出したらキリがありません。これらの中から自分が自分にふさわしい自称を選んで使うことには、やはり何かがあると思うのです。一人称によって、自分の使う言葉が変わるだろうし、印象も変わります。時と場合によって適切な自称があるだろうし、誰もが自然に使い分けているように思います。私もその中の一人だと思いたいのですが、一人称をどれにしようと考えてしまうことも往々にしてあります。
 一人称は、自己アピールであり、自己と他者の関係性を表しているものだと思います。そういう点で、不特定多数に自分を示すときは距離感が掴めずに一人称が確定できなくなってしまうのかもしれません。自分は単に、「俺は俺なんだよ」と主張するのに躊躇いを感じているだけなのかもしれませんが。
 実は、「自分らしさ」というものも、他者との関係性によって形成されるのかもしれません。自分ではこうだと思っていた自身のことが他人から見れば違うということが、多くはないにしろあると思いますが、そういう場合は、他者の理解したそれが自分であると考えた方が、誤解を生まずにすむと思うのです。でも、自分の中では絶対に譲れないものもあります。それはそれで主張して分かってもらって、というやりとりを繰り返して「自分」が形作られるのではないでしょうか。「自分」は他者が決めてくれますが、他者だけでは存在できないのです。「君、あの頃から何か変わったよね」と言われたときには、そう言った相手との関係性が少なからず変わってしまったということなんでしょう。それがどんな意味であれ。
「汝自身を知れ」という言葉があります。それは、簡単に言えば自身の性質の自覚や把握をするということを指しているものなのですが、自己の自覚による「我あり」の意識でもあるのかもしれません。自分を見失ったら、誰が自分を探してくれるのですか? 自分探しをする自分は、本当の自分ではないのですか?

「軸がブレている」とか「芯が強ければ大丈夫」とか「根は良い人だから」とかいう言葉をしばしば耳にすることがあるのですが、「軸」や「芯」や「根」が何なのか、よく分かりません。「あの連続バラバラ殺人事件の犯人、根は真面目で良い人なんだけど……」なんて言われても、ものすごく困るし、納得することができないと思います。そういった曖昧なものを基盤にして自分があるということを忘れてしまうと、あるとき、ふと自分の核は何なのかを無理に考えようとして、実は空っぽである可能性に気付き、自己不信に陥ってしまうかもしれません。境界の不明なものに線を引くというのは、難しいし怖いものです。とりあえずその曖昧なものをそういうものとして認めてしまうのは、危険なことであるかもしれませんが、生きていく上での一つのありかたとして、あってもよいのではないでしょうか。「そうだ、僕は僕なんだ」と認めることで、安心できることもあります。僕はどうしてこの「僕」なんだろうか、この僕でなくてもいいんじゃないか、なんていうことも、たまに考えてみるのも面白いですよね。

 自分自身と戦うということを開始したその時から、自分に勝つと同時に、自分に負けるという両義な結果を受け入れる覚悟が必要なのです。でも、そのときに味わう敗北は、決して苦くなんかない。