反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

Shine beams, eats, rings and leaves.


 輪を掛けて歯を食んで束になって掛かっても、根が断ち切られなければ、このカンジョウが途切れることはない。



 同じことを何度も繰り返すということに、何故か少しだけ恐怖のようなものを覚える。過ちは当然繰り返されるべきではないが、間違いでも正解でもない普段の何気ない動作を繰り返しているということに、少し不安を覚える。無意識のうちに何かが行われているという事実に洗脳的なものを感じてしまう。反復することで脳に重要性を認識させ、自然な思考や行動として、ある行為が身につくようになるのは悪いことではないが、慣れというものは、危険なものである。
 連歌や俳諧の禁則として、反復停滞を嫌い変化を重視するために、同字や同語または類似の語を近接して用いてはいけないという「去嫌(さりきらい)」という規定がある。古今通じて、反復による単調化は多彩な変化に比べて好まれなかったようだが、単調にさえならなければ、反復は、それが重要であると伝える役割を持つという点で大いに評価されうるだろう。とは言え、耳に胼胝ができるほど同じことを言われ続けたら、やはり耐え難いものがある。それが大切なことだと分かってはいても。自分自身同じ話題を繰り返したり、似たようなことを続けてしまうことがあるので、もう少しその周期を長くした方が良いのかもしれない。いや、むしろ、何を採り上げても必ず1つの言葉に帰納するというのも、清々しいように思える。

 ビームと言えば、光線のことだけを指すように思いがちだが、以前、ガードレールの端の、あの曲がった部分を「袖ビーム」と呼ぶことを知って大変驚いたことがある。先日起きた高速バスの事故が大惨事になってしまったのは、ガードレールと防音壁の境界で衝突したためだそうだ。何より駄目だったのは、運転手の居眠りである。こういったことがあるかもしれないと思うと、乗客は不安で仮眠もできないだろう。その仮眠が永眠になってしまうかもしれないなんて、酷すぎるのもいいところだ。いや、悪いところだ。そんなこの世の去り方は嫌だ。きっと成仏できないだろうし、もし輪廻というものがあるとすれば、その輪から解脱するのは尚更できないだろう。単調な振動は眠りを誘いやすいが、運転手には、慣れれば慣れるほど気を付けてほしいものだ。目を見開いてほしい。悲惨な事故が起きてしまって、直視できなくなるのを避けるために。
 光線の「ビーム」は直視し難い。「しねしねこうせん」などという存在しないわざマシンはともかく、太陽光線を直接見るのは非常に危険だ。5月21日には、日本の広範囲で観測できる、金環日食という非常に稀で大変貴重な天文現象が起きた。多くの人がそれを見ようと日食グラスを買ったことだろう。地球と月は、それぞれの周期で回転しており、それらが太陽と一直線上に位置するのは、一見そこまで長い周期ではないように思えるが、地球と月の軌道面が平均約6度ずれているために、実際はその周期は非常に長い。
 金環日食当日までに、第一接触は何時だとか、どれくらい続くのかとか、月が太陽から完全に離れるのは何時だとか、そしてさらには今度それが見られるのは何年後かといったことを耳にしたのだが、それは、誰かが何処かで何らかの演算をしたおかげなのだ。確かに金環日食は神秘的で、視覚的に楽しむことはできるが、それだけにとどまらず、見る人を背後で支えるこうした研究があることにも目を向けるべきなのかもしれない。ましてや金環日食が何か分からず、まだ日食の日は来ていないのに、「金環日食? 昨日、ちらっと見ました」なんて言ってしまうくらいに無知であるというのは、あまりにも危なすぎる。知る人と知らない人とでは、同じモノを見ても感じ方に差が付いてしまう。差が生じること自体に気付きにくいというのもまた恐ろしい。

 太陽は、その時が来れば地平線に没するが、決して永遠に去ってしまったというわけではない。
 円を描いて日はまた昇り、葉はその全てが光を受けようとして、同じように、しかし面は垂直にして、エンを結び続ける。