反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

色取り取りな彩り緑


 緑の黒髪の少女は、赤い白墨が好きだった。



 少年は、混乱していた。
 少女は、その緑の髪を風になびかせながら笑っていた。少年の顔色を窺い、ゆっくりと深呼吸する。右ポケットの赤い白墨をぎゅっと握り締める。そして少女は顔を赤らめ、黄色い声で少年の名前を呼んだ。
 少年は酷く混乱した。青い顔をしていた。
 少年は色を失っていた。いや、少年は、少女の色を見失っていた。


 何かを一目見るだけで、その色がどのようであるかは容易に分かってしまうから、少年が色で混乱するようなことは、普通は考えられない。そういうわけでこの話は破綻してしまうのだが、このままこの話を終わらせるわけにもいかないだろう。そう、色である。少女は、何色だったのだろうか。
「緑の黒髪」という言葉を初めて耳にしたとき、僕は即座にその髪の色をイメージすることができなかった。黒板のような色を思い浮かべる人があるかもしれないが、辞書によると「緑の黒髪」は「黒くて艶のある髪」だそうだ。英語では“raven-black hair”と表記される。烏の濡れ羽色ということなのだろう。「緑」は、グリーンではなかった。
「赤い白墨」という表現も気になる。形容矛盾ではないのか。そもそも形容詞を取り除いた「白墨」ですら白色なのか黒色なのか分からないというのに、「赤い」とはどういうことなのだろうか。結論を先に言えば、その白墨は、赤かった。「墨」が黒い顔料であるとか、「白墨」が白チョークに限るとか、そういうことではなくて、ここでの「白墨」は単なるチョークを指していただけであった。この調子で「木製の鉄器」などというモノが現れたら、それはそれでこわいのだけれど。

 色といっても色々あるが、色が色々あるのではない。色々な色の言葉があるだけだ。虹は七色だと言われるが、英語圏では、藍(indigo)を除いた六色であるとすることもある。どちらが正しくてどちらが間違いだということではなく、ただ単にそういう違いがそこにあるだけだ。雨の多い日本では雨を表す言葉が数多くあったり、犬も狸も狼も全て同じ言葉で表す言語があったりするといった、切り分け方の違いなのだ。
 分節化をすればするほど良いというわけでもない。選り取り見取りであることが必ずしも良いことであるとは限らない。多すぎる選択肢に悩まされることもあるかもしれない。人生は選択肢の連鎖だが、ある選択をして後悔をするくらいなら、一本道で単純な生き方の方が良いと思うこともあるかもしれない。だがしかし、複雑だからこそ面白いという意見も当然あるだろう。

 墨が見ている赤色が、何故この色なのかは分からないし、他の誰かの赤色と、全く同じに見えているのかどうかも分からない。少年が少女の髪を見て感じた色は、誰かにとっては緑色と呼ぶものだったかもしれないし、少女の好きな赤い色も、誰かの赤色とは一致しないかもしれない。だが、全ての人が少女の髪を見て黒色だと感じるだろう。少女の持つ白墨を見て赤色だと思うだろう。たとえ異なる見え方をしていたとしても。

 何かを選ぶということは、何か以外を捨てるということだ。
 だが、全てが掛け替えのないもので取り返しのつかないことであるというわけではない。選び直せることもある。やり直せることもある。

 緑の黒髪の少女だって、たまには別の色の白墨を選ぶかもしれない。
 それが何色であるかは分からないけれど。