反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

レトリック・オア・トリート


 お菓子をくれなきゃ巧いこと言っちゃうよ!



 言葉の扱い方が下手だ。拙いし汚い。上手く伝えようとしても届いてくれないし、諦めて放置すれば独り歩きする。統一感がないし、かといって機能的に分化しているわけでもない。お菓子を貰っても、言えるのはせいぜいお礼くらいだ。

 流れるように自然にすらすらと読める文章があるように、途中で詰まって不自然で何度も引き返してしまう読みにくい文章も、あります。読みにくい文章というものは、文法的に間違っているものが多い。一文が長過ぎる文章は、主語と動詞の対応が不適切になりがちだし、一息で読めない場合が多くどこで区切ればよいか分かりにくいだけでなく、日本語の特性上、基本的に述語は最後に置かれるので、句点が来るまで意味を確定できないことも多々あるのですが、それに加えて読点が打たれなくなれば尚更読みにくくなるはずですしそもそも書き手に文章を分かりやすく書こうという意志があるのかどうか疑いたくなるだろう。ひらがなだけのぶんしょうというのも、かなりよみにくいとおもいます。然し漢字過多至上主義者が一言隻句簡単明瞭な文章を書く訳も無く、対愚衆、対通俗の対抗手段とは言え佶屈聱牙極まり無い。一文一文は正しくても、文章全体ではおかしいということもあります。常体と敬体が入り乱れてしまったり。それはきっと、個性と呼ぶには程遠い。

 文体の個性を明確に把握するためには、まず、非個性的な一般の言語というものが前提となるはずだ。常識を覆すのは常識を知ってからだし、型を破るのは型を学んでからだ。基板が不安定なのに奇を衒うのは、全体としてますますアンバランスになるだけだ。付け焼き刃で身の丈に合っていないものを使えば、すぐに襤褸が出てしまう。だから早く切り上げたいと思ってしまう自分も確かにいるようである。
 自分の伝えたいことを、正しいあり方で表現できるようになりたいと思っている。だが、どういう扱いが「正しい」ものなのかがはっきりしてくれないのだ。本来の意味から離れて使われることの方が多くなった言葉を散見するようになった現実を見ると、正しさとは、多数決的で相対的な側面を持っているように感じる。正しいから読みやすいとか、読みにくいから正しくないとか、そういったものではないはずだ。

 正しくありたい。正しく伝えたいし、正しく理解したい。それは、課されたルール通りに振る舞いたいということであり、課されたルール通りに振る舞ってほしいということでもある。実践の中でルールを覚えるのは確かに効率的だけれど、初めに一通り説明書を読んでおいた方が良いこともある。定義を確定して言葉を使いたいから、曖昧なまま使いたくないから、私は説明書を読むのを躊躇わない。それが一冊であるとも限らないし、それらの中には修辞の凝ったものもあるかもしれないし、読者を罠にかけようとするものもあるかもしれないけれど。

 言葉は生き物であるから、常識外れで型破りな使い方をされていても、そのままの状態にしておくという扱い方もある。
 確かに言葉は生き物だ。だが、生物から栄養を摂取する際にはそれらを生きたままにしておかないことが殆どであるのと同じように、私たちは、生き物である言葉を、殺して使っているのではないだろうか。殺すことで言葉は活かされる。そんなパラドキシカルな結末を、迎えることになるのかもしれない。