反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2018-10-02

 ゴミを量産するのと何も生まないの、どちらがいいのかを考えていました。
 おそらくこれには若干の欠陥があって、自身の判断でゴミであるとしてしまう部分に誤りがあった場合、意味をなさないということです。ただ、よく考えてみれば、ゴミを生むためにそうしている場合というのはそもそも世の中にあまりなくて、大抵の場合、何かの副産物や結果として生じるものであるということを鑑みれば、価値のなさそうなものであっても何かを創造するという行為、それが目的であれば、何も生まない無よりは良いような気がします。

 誰にとってだ。

 こういうことを考えてしまうから良くないのかもしれない。何らかの行為が何かに影響を与えてしまうというのは言うまでもなく当然のことであって、わざわざ気にすべきことではないのかもしれないけれど、それを気にしてしまうのは良くない癖なんだと思います。それは誰にとって良くないんでしょうか。
 誰にとってどうなのか、と考えることは、今までも、そして最近の私の中でもかなり大きな部分を占めているように思います。これを脱さなければ「自分のために生きる」ことはできない気もする一方で、受け入れることも必要であると感じてはいます。そういう意味で、今年は「大胆に生きる」を掲げることにしていました。
 抽象的で良くないですよね。少なくともこれは自分にとって、自身の生き方の指針として良くない。