反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

ひのないところに立つ煙

煙が立つときに常に火があるわけではない。
つまり「¬煙が立たない→¬火がない」は偽。
対偶も偽なので「火のないところに煙は立たない」は偽。



 恥ずかしくも懐かしいものを掘り出してきました。
 この頃から、いやもっとずっと前から、対偶で考えることを積極的に実践する癖がついてしまっているように思います。
 便利です。便利ですが、普段の会話で使われるルールは、すべてが「AならばB」へ置き換えられるものではないことに気をつけないといけません。論理学的なそれの適応範囲はかなり狭いはずので、うかつに使っちゃだめなんですよね。過度な敷衍や限定が危険だっていう話です。

 あれは駄目とかこれは危険だとか、だから悲しいとかよく言っている気がしますが、そういう厳密な(?)ありかたを日常に持ってくるのはもしかしたら違うのかなと思うことも増えてきました。実は毎日そんなふうに意識して生きている人ってあまりいないんじゃないかって。
 冗談が通じない人だとたまに言われます。おそらく、冗談が通じないというよりは、どうでもいいことを信じることにしているだけだと思うんですよね。基本的にありがちなギャグの文脈を拾ったり察したりするのは得意な方だと思っているので、単純に、特徴的な形式を持たないありかたの嘘で笑いを取るタイプの冗談が刺さらないということなんだと思います。真に受けすぎとも言えます。自分に非があるのか気にしていたこともありましたが、何をもって非とするのか、何が良くて何が悪いのか、曖昧なまま考えるのは無駄なのでやめました。
 案外みんな、見過ごしたりやり過ごしたりしている部分が多いのかもしれません。そして私自身も例外に漏れずどこかで何かを見落としていて、きっとその差異ですれ違っていくんだと思います。年を取れば取るほど積み重なっていくそれは、人によって積み上げ方も違いますし、絶対量も違います。是非を語ることはしたくないですが、共通点が多いほどお互いを理解しやすいのだろうと考えているので、少なくとも自分は、なるべく自身の解釈を途切れさせないようにしていきたいと思っています。それは「スルースキルがない」と叩かれて炎上することなのかもしれませんが。
 何が自分にとって大事なのか考えたほうがいいとは以前もいいましたが、上で言った意味では、自分が自分であるには必要なものなのだと思います。そういうやり方で自分や他人、周りの人や物をわかりたいと思ってしまったので。ただ最近思うのは、そこに重みづけをしろということなのだろうということです。感覚が過敏であることを受け入れつつも、そこに優先度をつけるべきであって、見過ごすとどれくらいまずいのか、自分にどの程度悪影響があるのか、率先して見るとよいものは何か、きちんと考えて「見る」べきなんだと思います。思考して理解する速度が大きければ気にせずにいられたのでしょうが、自身を取り巻く環境因子は自身の能力の容量をゆうに超えているのは自明なので、何を優先するかを見直すべきでした(それは、何を選んで何を捨てるかという二分法から抜け出せるのである!)。

「火のないところに煙は立たない」というのは、論理と言うよりもむしろ感情に近いのかもしれません。意見というか考え方というか、そうであってほしいという希望というか。論理であれば気持ちの問題ではなく、感情が主題なら理論立てて話をすることができないとしてしまうのも、網羅的仮設の誤謬とやらであるのかもしれないし、もっとファジィに考えて、可能性のスペクトル全体を見たほうがよさそうです。グラデーションを追いかけるというのは果てがなく、いつまでも続くグレーには辟易しそうですが、解像度を上げるには必要だと思います。逆に言えば(対偶らしく言えば?)、その必要がないならしなくていいことですし、したくないならする必要はないことなんですよね。そういう意味で、これは私自身のそうしたいという感情であると言えるのだと思います。