反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2018-10-24

 電車内でスマートフォンタブレット端末を使用しない人を見かけないことがない世の中になりました。
 それはまあ良いことではあるとは思うのですが、リテラシーを身につけてないと非常に危ういなと思うことも非常に多くあります。

 見ようと思っていなくても見えてしまうことってあるじゃないですか。変な意味ではなく。

 電車で隣りに座っている人が、仕事のメールをチェックしていました。50歳くらいの男性。
 内容はおそらくそこそこ重要そう。職業も、今どんなプロジェクトが動いているのかも、誰とやりとりをしているのかも分かってしまいました。そこまで分かったらチラ見の範疇をこえていると思うかもしれないですが、前かがみでタブレット端末を広げていたらそりゃもう見てくれと言わんばかりの面積を占めるわけですよ、僕の視野を。

 僕も昔こういうミス(?)をしたことがあって、Twitterを見ていたら近くにいた知り合いに見られてアカウントがバレてしまいました。まあ隠しているわけではないので別に問題はなかったのですが、不本意ではあります。
 この程度なら良いんですけど、機密情報が漏れたとしたらこわいですよね。そもそも外出中にそういうものを触るのはやめたほうがいい。

 そういう意味では、パソコンでのみブログを更新するというのは、変に外部から知られてしまうのを防いでいたのかもしれないです。外で空いた時間にスマートフォンで更新しようとすると、やはり周りの目がありますし。ま、これも広まっていいんですけどね、別に。

 イメージはほとんど裏切らないもので、あやしいなあと思っていた人のSNSのアカウントをたまたま見つけてしまったとき、そんなにその内容で驚きはしないんですよね。やっぱりそうだったか、みたいな感じで。意外と見た目に出ているものなんだなと思います。
「転生」なんかもそうです。おそらく、アカウント名を変えたりアイコンを変えたりしても、分かる人にはそれが分かってしまうんだろうなと思います。良いのか悪いのか。そもそも自分にとってアカウントを消したり新たに作ったりという行為は変に自我が分断される気がして嫌なので、やらないようにしていますが。あと単純にあれです、自分はそれをされて少し悲しいなと思ったので、だからしないです。別にだから他の人にするなと言っているわけではなくて、単に自分が気持ち悪くなるので。