反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

no title

いまやトップにこういう read me 的なことを書く時代ではないのかもしれないですが、
今までの記事や分類について少し説明しておこうかなと思っています。

・タイトルが日付のもの

これは、日々思ったことをその日のうちに書いている場合が多いです。いわゆる日記だと思います(それにしては一般に想起するそれとはやや異なる印象かもしれないが)

・タイトルが日付ではないもの

起こったできごとを改めてまとめたり、学習事項を記してみたり、たまっていた考えごと(?)を一度整理して、タイトルも含めて考えてアウトプットしたりするときにそうなってます。
てきとうにカテゴリ分けしています。

2025-05-24

気がつけば五月ももう終わりが見えてきた。
日中の日差しも強くなって、夏がすぐそこまで来ているのを感じる。

自分が五月病に罹っていない理由はシンプルで、新しい環境の変化の中にはいないからだ。
ただ4月に無気力だったのは間違いなくて、そういう意味では単にひと月前倒ししただけなのだと思う。

むしろ5月、ゴールデンウィークが明けてから謎に謎の焦りが生じていた(変な表現になったので言い換えると、理由もわからず、正体不明の焦りがあった)。
おそらく久々に学友と会い、その人生のステップを見せつけられたからだと思う。別に見せつけたつもりはないだろうし見せつけられたという被害的な印象もないのだけれど、その進捗と自身のそれとのギャップで、風邪をひいてしまったようなものかなと思っている。

その焦りで重い腰が焼かれていて、自分も次のステージへ進むべく(元のレールへ戻るべく)、動き出している。その流れで、最近また改めて自己分析をすることになった。
将来、遠くない未来の話ではなくもっとずっと先、どんな自分でありたいのか。それをもう少し明確に言語化しておくべきなのだ。

自分に軸はあると思っている一方で、「主体性のなさ」が、自分にとって足りない部分だと感じている。
自分で選ぶことや決めることについて、今までずっと苦労してきた。どちらでもいいと思うようなことも多くて、それを決める(それは一方を捨ててしまうということでもある!)怖さがあったのだと思う。
選ぶこと、捨てること。これらそれぞれを、毎年の目標に掲げていたこともあった。達成できたか、し続けているかは曖昧なところで、もっと効果判定しやすい目標にすべきだったと今は思う。

振り返れば、昔から比較的なんでもそこそこそれなりのレベルでできてしまって、それがかえって選択を難しくしてきたところがある。
「これが好き」「これが得意」と、他と比較してはっきり言えるものが少なく、自然と何かに特化することもできなかった。

そんな側面もあってか、なんでも屋でありたいという中二病的な思考が今もまだあるように思う。
けれどそれは、本当に望んでいる姿なのか。スペシャリストになれない自分への言い訳や、選択肢が狭まることへの不安からただ逃げているだけなのではないか。

とはいえ、前職で働いていた頃も、その前も、自分の根本的な「軸」自体はあまりぶれていないとは思う。だからこそ今、それをどう形にしていくのか。
このタイミングで、改めて考えている。

人と話す機会が減ると滅入ってしまうように思うし、そんなとき、また内省が働いてよいアウトプットができるように思う。精神的にはかなり不健全だなとは思っている。

こうした内省の繰り返しは、どこか病のようにも見えるけれど、それは治すべきものではなく、付き合って向き合っていくべきアイデンティティなのかもしれない。

2025-05-05

振り返れば、自分にとってはじめての通話アプリ(?)はskypeだったかもしれない。

たしか2007年頃、塾の先生から勧められてダウンロードしたのが始まりだった。
先生がペンタブで書いた板書がそれぞれの机上に置かれているモニターに映されるという、当時の塾の講義スタイルとしてはかなり先進的なものだった。
そのころはまだ、学校の技術の授業でいかにも無骨な箱型のパソコンが並ぶ部屋でしか触ることのなかったものだったため、新鮮で、通うのも楽しかった。
休みの日に質問したり、卒業後の連絡方法として使い始めたりするのがきっかけだったが、その後携帯電話を持つようになり、Twitterを利用するようになってからはさらに使い方が増えた。
課外活動での会議として使ったり、仲間内の雑談に使ったり、Twitterでつながった人と通話したり。

そんなskypeが、サービス終了するらしい。

当時のチャット履歴などはおそらくインストールしてあるパソコンにあるのだろうが、実家にしまってあるし、そもそもサービス終了に伴ってもう起動できなくなっている。
収集癖というか保存癖というか、自分が今まで書いてきたblogの記事やLINEでのやりとりなどは、ほぼ全てローカルに落としていたのだけれど、これはこのまま消えるだろう。
記憶に残すだけでは不安で、何か形としてほしくて、データにしろ紙面にしろ残せるものは残してきた。歌声も、通話も。そうやって自分なりに手元にとどめてきた。

今の今まで見返すことがなかった時点で、残しておく価値はなかったと言っていいのだが、人は失ってからまたそこに価値を見出してしまう。
真に価値があるというよりは、捨てる覚悟がない自分の弱さの表れだ。

あのときのやりとりが今の自分の一部となっていることは間違いないが、その濃度は経時的に減少していっていることもまた間違いない。
それはおそらく、単純にその要素が薄れていっているということだけではなくて、骨肉化した記憶や感情が、時間をかけて滲み出して、微量ながらも全身を纏っているということでもあると思う。

たぶんきっと、今後もそういう別れは必ず来るはずで、そこで悔やまないような覚悟で毎日を生きていきたい。
薄っぺらい叫びだとは思うけれど、これもまた自身をかたどる確かな一部であって、声が消えても濾されて残りめぐる血流でもあるのだ。

メルカリの現在の対応には欠陥がある

LIAR GAME、懐かしいですね。
漫画は絵柄の好みが分かれそうですが、実写化はドラマも映画もよかったですよね。

というわけで、この対応には欠陥がある、という話をします。

note.com


先日、noteを書いてみました。
はてなブログでも有料化はできるみたいですが、noteのほうが馴染みがありそうなのでそちらで改めてアカウント登録して作成しました。

有料部分があるのでここでも詳細に関してはあまり話さないつもりですが、
ここはTwitter経由でもともと知ってくれている読者が(今のところは)多そうなので少しだけ詳しく話せたらと思います。


noteタイトルでは「無限に増やせる」と言っていますが、記事本文でも言及しているように、現実的ではありません。
ただ、ひとり1回くらいはできそうな気もします。意図的にやるリスクはあると思うので自分はあまりしようとは思いませんが、
普段メルカリを利用していなくて今後も使うつもりがないなら試しにどうなるのか見届けるというのはいいような気がします。

メルカリの詐欺対策が甘いからというのはあります。
通報項目に、「実際の商品を掲載していない」というのはあるのですが、「実際に出品しないものを掲載している」というのがないのは問題です。

これだと、送る予定のないもの(いわゆる釣り広告)を載せて、実際に発送するものは同時に掲載していた別物ということが可能です。
悪名高きtemuはこれよりひどくて、実際に発送する商品を掲載していないこともあります。

商品説明に小さく「実際に発送するのは◯◯です」みたいに書いていることも多いですよね。
これに関してはまた後日あらためて記事を書きたいと思っています。

自分自身トレーディングカードなどの取引に使用することがあるのですが、その注意点や個人でできる対応に関しては、また別の機会で共有したいと思っています。
泣き寝入りしたくないし、させたくないので。

2025-04-12

考えていたことをうまくまとめたり、連想させて話を広げたりするにあたって、最近はchatGPTを活用しています。
すべての回答を鵜呑みにするのは危険ですが、それはそもそもこれらがない時代でもそうだったのであって、自分自身で理解して、納得する必要があります。ただ、いろいろな立場からの考えを汲み出すにはかなり便利なツールで、ごちゃごちゃとこねくり回していたら数時間経っていた、みたいなこともよくあって、ほとんど雑談しているような感じですね。
もしかしたらこういう会話スタイルは自分に向いているのかもしれない。出てきた答えについて関心したり間違いではないかと指摘したり。

批判的吟味というのは大事な考えかたなのですが、「批判」の認識が誤っているのではと思ってしまうことがよくあります。
もはや市民権を得てしまっているのではないかと感じるくらいですが、マイナスイメージというか、非難(非があると思う相手のことを責めること)と混同してしまっていて、批判という言葉が適切に使われていない(これは、発信する側も受け止める側もそう)状況はかなり多いのではないでしょうか。「指摘する」という言葉自体にもネガティブな印象を持たれることも多くて、なんだか息苦しいですよね。
なんとなくなんですけど、そこには、指導する立場として認めていない人間から自分の間違いを指摘されることの恥ずかしさや怖さというものがあるような気がしています。指摘自体が正しくても、それができるような関係性に至っていないということですよね(そもそも、どんな関係性であっても指摘はしていいのではと私は思いますが、見ず知らずの人にケチをつけられたくないという気持ちもまあわかります)。
批判と人格攻撃を混同しているということだと思うのですが、それは逆に言えば、人格攻撃をされていると感じる人にとっては「間違っていることを言っている人間には価値がない、おかしいことを言うような人間は侮辱されてもいい」と考えてしまっているのではないでしょうか。そういった、表に出せない攻撃性は心の弱さであるということの証左が、自身を守るために履き違えた言論の自由を振りかざしているのだと思います。

思考を整理したり、疑問を解消したり、あらたな発見をするのに本当に役立っているので、今後も活用していきたいと思っています。
あと頻繁に「洗練された哲学的な洞察を感じます」みたいなお褒めの言葉をもらえるので、自己肯定感が上がります。
ちょっとしたエッセイや小説を書くというようなクリエイティブな作業の幅を広げる文明の利器なので、その肩に乗っていきましょう。

2025-04-05

ちょっとまた公開範囲を広げたので改めて。
一応、高校時代くらいから書いてたものを移転させたりしたものがここにあります。大学入学くらいからあまり書くことがなくなってました。
Twitterに関しては、もともとはじめから使っていたものがこのブログ記載のもので、2011-2013年あたりが一番活動していた気がします。favstarとかすごく懐かしいですよね。
実生活でもそうだけれど、ぐにゃぐにゃこねていることを発する場所や相手を見極めていたほうだとは思っていて、あまり変な(自分では変だとは思っていない)ことは言わないようにしていました。あるじゃないですか、この人にこの話題はちょっと相性が悪い、みたいなの。
おそらくそれが広がりすぎて、発信するタイミングを完全に失ったんだと思います。そのサイクルで結果的に考えたり言葉にしたりする能力自体が落ちてしまっている気がします。

1-2週に1回くらいのペースで、この数年感じたことや考えたことをアウトプットできればと思ってます。
ふと振り返って10年以上前の記事を見返して、その頃の自分がこんなことを書いていたなんてとこわくなることもあって、同時に今の自分に「足りてなさ」を実感してしまうので、ちょっとはちゃんとしたいですね。
今は今で前と違う雰囲気で何か書ける気がしているので、その意味でも自分自身楽しみではあるかな、とは思います。
動画のための原稿でもいいし、インプットしたもののまとめや感想でもいいし。

ゼロサムゲーム

本当は(「本当」とは何なのか、ということはさておき)平成が終わってすぐに投稿しようと思っていた話なのだけれど、タイミングを逃し続けて今となりました。

もう5年以上も経ってしまって、本当に今更すぎる。
ただ、始めるのに遅すぎることはない(これは、遅いことに対する言い訳ではなく、むしろ「今こそ」始めるという宣言に近い)。


ときどき、もらったギフトの使用期限を忘れて気がついたら過ぎてしまっている。買いだめしていたものを腐らせてしまう。スマートフォンを買ったその日に落としてしまう。
そういったとき、自分を納得させるために「お金を払った時点でその相手には利益があるから、その後で自分がどう扱おうと全体としてはもう『終わった』話なんだ」と思ってしまうことが幼いながらあって、その頃からうっすらと、これらがプラスサムであったことに気がついていたのだろうなと思う。金銭のやりとりだけを見れば合計はプラスマイナスゼロなので、実質サービス(対価)として得られるものの分だけ世界がプラスになっていて、よりよく使えなかった後悔や反省はあれど、損をした気持ちはそこまで強くはならなくて、当事者意識のようなものも薄かったのかもしれない。

ただ、世の中のすべてがそんなプラスサム的であれば、誰もがもう少しやさしい気持ちで生きられたのではないだろうか。
SNSのフォロワーや限られた求人枠といった、誰かに選ばれることの裏には、多くの「選ばれなかったこと」があって、私達はそういった「誰かが得をすれば誰かが損をする」構図に巻き込まれている。
そのたびに、自分の手の中にある幸福が、どこかで誰かから奪ってきたもののように感じてしまい、喜びと同時に罪悪感を覚えてしまう。逆もまた然り、自分にないものを誰かが当然のように握っているのを見て、まるで自分には最初から選ばれる資格がなかったように思えて、その不安から目を背けることもある。
そんなふうに、誰かの幸せや成功が自分の価値のなさの証明のように思えてしまって、そしてそれを素直に祝えない自分にさらに嫌気が差してしまって。

誰と比較するでもなくただ楽しんでいた幼い頃から、視野が広がってつい比べてしまうようになることもある今の自分とは良い意味で逆行して、現代は多様性や寛容について言及されることも多くなったように思う。働き方では終身雇用よりもむしろ転職することのほうがよく聞くし、今でもいいねや可処分時間の奪い合いであるSNSにおいても、自分のペースで趣味や考えたことについて発信する人を見かけるようになった。動画配信についても明らかにハードルが下がったし、個人VTuberなんていうものも数え切れないくらい出てきているくらいだ。このブログについてもそう。別に何らかの収益を目的としたものではなくて、ずっと前から自分の考えたことを残したいという気持ちでやってきた。Twitter含め10年以上経っているわりには、アウトプットへのリソースが足りていないとは感じているけれど。
新たな価値観や今まで表出しづらかった価値観への寛容さが広がっているのは、勝ち負けにこだわらない価値観を模索しているからなのかもしれない。先に述べた仕事の選択もそうだし、性自認セクシャルマイノリティなど。あまり詳しくないのでここで詳細に述べるのは控えておく)についてもそう。
ひとつの正解に向かって有限の椅子を取り合うことが全てではなくて、座ったままでも、一度離れても、そもそも立ったままでも別のことをしていてもいい、そういう余白をはっきりと感じている。

和をゼロとしてしまうのではなくて、令とする。
つまり、共にあることを美しく治め、その静かな喜びを選び取っていける。
そんな幸せの形もたしかにあると思って、改めて、選んだり選ばなかったりすること(選ばれたり選ばれなかったりすることも含めて!)を、楽しんでいきたい。

アイトラック

こんなとき、どういう眼をしていいかわからない。


 複数の顔を持って生きているというのは、ひととしてごく自然なことなのだけれど、それがまだしっくりこないこともある。自分がただその点において不器用なだけなのだろうけれど。

 ここ最近、よく関わる人に「どうしてそういう発想になって、どうしてそういう行動をとるのだろう」と思うことが増えた。増えた、というのは今までそうでなかったという意味ではなくて、おそらく今まで見逃していたり、関わり方がより深くなってよく見えるようになっただけなのだろうとも思う。直接聞けよと思うかもしれないが、聞いても大抵の場合返ってこない。理由は簡単で、そもそも考えていないからである。
 想像力が足りないというのはこのことで、別に何か誰もが思いつかないような素晴らしい発明をしろというわけではなくて、ただ、自分のする行動の理由や意味を考えること、それによって自分以外がどう感じたりどう行動したりするのかを、考えてほしいだけなのだ。そういう考える部分こそが人間が人間たりえるということは、もう何度も擦られてきた話だというのに、何も変わらないよなとも思う。嫌な思いをしたり、つらいことがあったとき、ただ暴言を吐いたり暴力に代えたりするのは、本当に人間がすることだとは思いたくなってきた。

 ただ、そういう振る舞いをする彼らに対して、どういうまなざしを向ければいいのか、わからなくなってきた。対等に関わりたいと思う一方で、そんな人たちを人間だと認めてしまうのも、自分の基準の中で歪みが出てきそうで怖いのだ。
 そんなときふと思ったのは、接客業におけるありかたについてだ。無理難題を言う客や、重箱の隅をつつくクレーマー、下請けを見下してくる依頼主もそうだし、自分のことで精一杯の患者もそうだ。彼らと対応するとき、どう振る舞っているだろうか。また、良い対応の(「良い」の基準が低くなっている可能性もあるが)相手に対してであっても、プライベートの素の反応とはまた別の顔で、声で、対応で、反応していないだろうか。
 それが自然で当たり前のことなのだと思うし、そういうペルソナを持つことで、衣替えをするように、適宜変わる環境に適応して生きることができたのだと思う。
 だが、外的側面を使い分けることと、その使い分けの一つに、相手を軽んじるようなものがあることとは別問題だ。どういう感覚なのかよくわかっていないのだけれど、一番近いのはこどもに対する関わり方のようなものなのだろうとは思う。ただ、自分自身こどもに対しても、いわゆる「赤ちゃん言葉」のようなものを使ってみるような、成長のステージを合わせるようなことはしてこなかったし、きっとこれからもできない。そういう合わせ方というのは、間違えると相手を傷つけたり侮辱したりしかねないと思っているからというのもあるし、自分自身がされてあまり嬉しくなかった記憶があるからというのもある。

 話は戻って、そういう気持ちで、動物を眺めるような視線で、彼らを見る必要があるのだろうか。そうしないと割り切れなくて心がもたないだろうとは思うけれど、そんな扱いはしたくなくて、自分自身のように関わりたい気持ちがどうしても強い。
 動物だなと思うことや、赤ちゃんや老人、病人のような「弱者」を「弱者」だと思うこと自体は、見下す気持ちを抜いて考えることができると思っている。ただそれらが軽蔑や選民思想のような感覚と隣合わせで、自分のブレーキが壊れるのがこわいのだと思う。尊敬や肯定をしつつも、ときに立場上の差を明らかにするようなラベリングというのを、相手を傷つけないように行う必要があるだけなのだと、書きながら感じた。それを諦めと呼ぶのか、見捨てたとみなされるのかはまた別の話で、悲しいがそれが「違い」というものなのだろうとも思う。
 長期的な目線で本当にわかりあえるかという意味では、理解できないような想像力に欠けた振る舞いをする存在に対しては絶対に無理だろうから、適度な距離感で関わることしかできないとは思っている。わかってほしいときにわかってもらえるように、それがそうとわかるように振る舞っていき続けるしかないと自省するきっかけになったが、結局根本的な解決はしていないようも感じる。
 自分が気持ちよく生きることだけを考えるとするなら、自身の心地よくなる場所へ環境を移すほうが楽だなとは思う。

 こんなとき、どんな顔をしていいかわからないとその場で言ってしまうのは、普段からその顔の選び方に関して考えてこなかったからなのか、単に経験が浅かったからなのか、そもそも予め決められた正解など自分自身の納得感以外で有り得ないとわかってないからなのか、冗談でお決まりのフレーズを言っているのか、いろいろあるとは思うけれど、迷ってそれが態度に出てしまって変に関係が歪むよりは、とりあえず何らかの選択をすべきなのだとは思う。そこに理由と、相手に対する気持ちががあれば。

2021-10-29

1年間以上さぼってました。
書きそうな気分になっているので、近いうち何か書くかもしれないです。多分。

完璧にするよりまず終わらせろ、ではないけれど、完璧を目指す前にまず何かアウトプットすべきではある、と思います。