反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

アイトラック

こんなとき、どういう眼をしていいかわからない。


 複数の顔を持って生きているというのは、ひととしてごく自然なことなのだけれど、それがまだしっくりこないこともある。自分がただその点において不器用なだけなのだろうけれど。

 ここ最近、よく関わる人に「どうしてそういう発想になって、どうしてそういう行動をとるのだろう」と思うことが増えた。増えた、というのは今までそうでなかったという意味ではなくて、おそらく今まで見逃していたり、関わり方がより深くなってよく見えるようになっただけなのだろうとも思う。直接聞けよと思うかもしれないが、聞いても大抵の場合返ってこない。理由は簡単で、そもそも考えていないからである。
 想像力が足りないというのはこのことで、別に何か誰もが思いつかないような素晴らしい発明をしろというわけではなくて、ただ、自分のする行動の理由や意味を考えること、それによって自分以外がどう感じたりどう行動したりするのかを、考えてほしいだけなのだ。そういう考える部分こそが人間が人間たりえるということは、もう何度も擦られてきた話だというのに、何も変わらないよなとも思う。嫌な思いをしたり、つらいことがあったとき、ただ暴言を吐いたり暴力に代えたりするのは、本当に人間がすることだとは思いたくなってきた。

 ただ、そういう振る舞いをする彼らに対して、どういうまなざしを向ければいいのか、わからなくなってきた。対等に関わりたいと思う一方で、そんな人たちを人間だと認めてしまうのも、自分の基準の中で歪みが出てきそうで怖いのだ。
 そんなときふと思ったのは、接客業におけるありかたについてだ。無理難題を言う客や、重箱の隅をつつくクレーマー、下請けを見下してくる依頼主もそうだし、自分のことで精一杯の患者もそうだ。彼らと対応するとき、どう振る舞っているだろうか。また、良い対応の(「良い」の基準が低くなっている可能性もあるが)相手に対してであっても、プライベートの素の反応とはまた別の顔で、声で、対応で、反応していないだろうか。
 それが自然で当たり前のことなのだと思うし、そういうペルソナを持つことで、衣替えをするように、適宜変わる環境に適応して生きることができたのだと思う。
 だが、外的側面を使い分けることと、その使い分けの一つに、相手を軽んじるようなものがあることとは別問題だ。どういう感覚なのかよくわかっていないのだけれど、一番近いのはこどもに対する関わり方のようなものなのだろうとは思う。ただ、自分自身こどもに対しても、いわゆる「赤ちゃん言葉」のようなものを使ってみるような、成長のステージを合わせるようなことはしてこなかったし、きっとこれからもできない。そういう合わせ方というのは、間違えると相手を傷つけたり侮辱したりしかねないと思っているからというのもあるし、自分自身がされてあまり嬉しくなかった記憶があるからというのもある。

 話は戻って、そういう気持ちで、動物を眺めるような視線で、彼らを見る必要があるのだろうか。そうしないと割り切れなくて心がもたないだろうとは思うけれど、そんな扱いはしたくなくて、自分自身のように関わりたい気持ちがどうしても強い。
 動物だなと思うことや、赤ちゃんや老人、病人のような「弱者」を「弱者」だと思うこと自体は、見下す気持ちを抜いて考えることができると思っている。ただそれらが軽蔑や選民思想のような感覚と隣合わせで、自分のブレーキが壊れるのがこわいのだと思う。尊敬や肯定をしつつも、ときに立場上の差を明らかにするようなラベリングというのを、相手を傷つけないように行う必要があるだけなのだと、書きながら感じた。それを諦めと呼ぶのか、見捨てたとみなされるのかはまた別の話で、悲しいがそれが「違い」というものなのだろうとも思う。
 長期的な目線で本当にわかりあえるかという意味では、理解できないような想像力に欠けた振る舞いをする存在に対しては絶対に無理だろうから、適度な距離感で関わることしかできないとは思っている。わかってほしいときにわかってもらえるように、それがそうとわかるように振る舞っていき続けるしかないと自省するきっかけになったが、結局根本的な解決はしていないようも感じる。
 自分が気持ちよく生きることだけを考えるとするなら、自身の心地よくなる場所へ環境を移すほうが楽だなとは思う。

 こんなとき、どんな顔をしていいかわからないとその場で言ってしまうのは、普段からその顔の選び方に関して考えてこなかったからなのか、単に経験が浅かったからなのか、そもそも予め決められた正解など自分自身の納得感以外で有り得ないとわかってないからなのか、冗談でお決まりのフレーズを言っているのか、いろいろあるとは思うけれど、迷ってそれが態度に出てしまって変に関係が歪むよりは、とりあえず何らかの選択をすべきなのだとは思う。そこに理由と、相手に対する気持ちががあれば。