反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

木天蓼ネコと薇ワラビー


 猫も杓子も可愛くない子も、皆揃って旅に出よう。



 春は始まりの季節だと言われる。旅立ちの季節だと言われる。新学期。入学式。新生活。入社式。緊張するのなら、胸がキタイでいっぱいになるくらい深呼吸すればいい。初めは誰でも借りてきた猫だ。無理して虎の心を知ろうとせずに、できることからできる数だけやればいい。新緑とともに、心ももえる。春は、そんな季節だ。
 未知の世界へ飛び込むことで新たな出会いをするかもしれないが、旅立つということは、旅立つ地に別れを告げるということだ。再びその地に戻ってくることは大いにありうるが、一時的でも住み慣れた場所から離れるというのは、きっと不安で寂しいことだ。出会えば必ず別れがある。生まれてくれば必ず死ぬのと同じように。一秒後はきっと大丈夫だからn秒後も大丈夫だなんて考えてしまうから、突然の別れは大きな悲しみを生んでしまうのかもしれない。覚悟していれば不意を突かれることはないだろうが、ゆっくりと、しかし確実に迫ってくるそれを感じ続けるのも、非常に恐ろしい気持ちになるのかもしれない。出会わなければ別れることはないが、それでは何だか物足りない。「等価交換」というものなのだろうか。プラスとマイナスを繰り返して、全部集めたら少しのプラスになっているのだと信じたいけれど。
 旅といえばすぐに思い浮かぶのが「自分探しの旅」だ。「自分」は今ここにあって逃げも隠れもしていないのに、それを見失って探そうとして、遠い場所へ旅に出てしまう。新しい関係が欲しくて、新しい自分が欲しくて、旅に出てしまう。きっと「自分」とは今ここにある自分自身だけでは定められなくて、他者との関係性や差異によって初めて存在できるのだろう。これは本当の自分ではない? 本質が見えていない? もしかしたら見えているものが本質であるかもしれないのに。腹の袋の中には、本当の自分なんていないかもしれないのに。

 薇(ぜんまい)と蕨(わらび)は、よく似ているが別物だ。それと同じように、自分の考える「私」と他の誰かの考える「私(あなた)」も、一致している部分はあるだろうけれど恐らくそれは異なるものなのだろう。たとえどんなに腹の内を見せ合ったとしても、不一致のままなのだろう。どちらが嘘で偽物だなんて、きっと決められなくて、どちらも「私」なのかもしれない。
 新たな関係性の中で、自分自身にとっての「私」が揺らぎ、今までの自分に別れを告げなければならなくなることもあるかもしれない。
 それは突然のことかもしれない。
 しかし、再会もまた、突然だ。
 伸縮を繰り返してほんの少し大きくなって静止したバネも、再び力を加えれば、きっと大きく跳ね上がるだろう。