反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2014-02-09

 7日にあった成績発表で再試験が決定した友人が自宅に来て2日になります。「勉強会」と言っているらしいのですが、それは名ばかりで遊んでばかりいて、進級できるのかとても不安です。僕は僕で一人で外出するわけにもいかず、自宅で本を読んだりネットサーフィンしたりしています。

 すごい積雪です。自分の身長より高い雪だるまを作ったのは初めてです。

 

 タイトルが確定していなくて、まだ元のブログにリンクを張れていません。相互リンクしていた方が不安になっていたみたいなので、早くしないとと思っています。実際こういうのはテキトーでも問題なくて、在ればそれでいいのだとは分かってはいますが、まだ慣れません。たとえばこういう文章を書くのにしても。

 

 幼い頃の方が本をよく読んでいたことを思い出します。最近では漫画を手に取ることの方が多く、少し文字離れしてきているのかなと思っているので、意識的に読書量を増やそうと思っています。インプットもですが、アウトプットも確実に減っていることと思います。ブログでは以前にノートに書いた写しであるものが多いし、Twitterなどでもつぶやきが減っています。少しづつですが修正していきたいです。

2014-02-07

 今は休暇中なのですが、学校に行ってきました。成績発表があっていたらしく、再試験者は手続きに来ていたこともあり、普段より多かったそうです。僕はまあ、可もなく不可もない成績でした。2つの意味で。思ったより悪かったので詳細を開示してもらおうと思ってます。

  注文していたフォールディングテーブルが届きました。こんな感じの。ちょっと不安定な気もするけれど、その辺は加工して何とかしてみようとおもっています。

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 ストリートに出る準備も整いつつあります。後は練習です。

  学校の体育館にはトレーニング機器が案外充実しているので、今後は利用していきたいと思ってます。外に出ない生活が続いて腐ってしまうのは避けたい。

A Santa lived as a devil at NASA.


 それは悪魔の囁き。



 クリスマスというのは特別な日であるらしく、その前日も例外ではなかったようだ。「クリスマスイブ」が前日の夜のみを指すことはある程度知られている事実だが、前日全体を指してしまいたくなるほどには、12月24日という日は魔力がある。
 魔力って何だよ。
 思わず呟いてしまう。僕はあまり「特別な日」が好きではない。クリスマスにしろ正月にしろ、その、何かイベントがある日のせいで、他の日が蔑ろにされているのではないかと、不安になるのだ。かといって自身が毎日を大事にしていると声を大にして言えるわけでもなく、結局は、他の人たちが楽しんでいるのが羨ましいだけなのかもしれない。
 怠い体を起こしながら、いつもと同じように駅へと向かう。厳密に言えば、祝日だったので少し起きるのは遅めで、いつもより後の電車に乗ることになった。都会とは違うから、数分おきに電車が来るわけではない。家を出る前に「じゃあ今日は何時何分の電車に乗ろう」ときちんと計画しているのだ。まあ、これもいつものこと。
 座席は、クロスシートではなくロングシートだった。端に座りたかったけれど、空いていない。クリスマス前日だし多いのかな、座れるだけましか、なんて考えながら、ゆっくりと腰を下ろす。
 しまった。向かいに座っているの、あれはカップルじゃないか。電車内ではちょっとは控えてね、頼むから。まあ年頃の男女だし仕方ないことなのかなと、若干諦めつつ、到着駅まで寝てようかなと考えていた、のだけれど。
 隣の人が寝始めて、ちょっとこちらに頭が寄ってきている。上から目線のような表現になって非常に申し訳ないけれど、比較的綺麗な方だったような気がするので、なおさら焦る。
 これはまずい。何とかしないと。「船をこぐ」とはこういうことを言うのかな、なんて思いながら、その船乗りの不在に戸惑う。揺れは大きくなる。これは、いつものことじゃない。
 予想外のことではあったけれど、こういうことはよくあることではある。他人事だけれど。電車に乗っていて眠くなるのは、一定のリズムが刻まれるからだ。冬は線路が縮むから、その隙間のせいでガタゴト言っているのだろうか。なんにせよ、今は、この状況を何とかすべきだ。
 楽しい時間は早く過ぎるが、辛い時間は長く続くように感じる。正直に言って、よく分からないが普段とは違う時間の流れが、僕にはあった。別に魔力がどうとかってわけじゃない。ただ単に、こういうことが不慣れで苦手なだけだった。苦手だったけれど、案外、こういう機会がいつか来るのではないかと思ってはいた。
 携帯電話を取り出す。
 ゆっくりとメモ帳に文字を打っていく。
 一度はやってみたかったと思っていたことではあったけれど、遊び心からではないし、素直に普通になされることだと思いながら、文字を確定させていく。ちょっと漫画の読み過ぎか。実際は漫画はほとんど読んだことないけれど。
「よかったら、肩、貸しますよ」
 寝てる船乗りの肩をたたきつつ、その画面を見せる。たった数文字、絵文字なんかもあったけれど、その文字列には何らかの魔力が……あるわけないか。
 偏見だけれど、日本人はこういうことを自分から積極的にしそうにないと思う。アメリカとかはありそう。完全にイメージだ。今まで一度も海外に行ったことがないのに何言ってるんだろう。
 起きたセーラーに二度見された。少し笑ったような気がした。
 そしてまた目を閉じる。
 ある種の了解が互いにあることほど、安心できることはない。あの人はどうしてるんだろう。クリスマス、誘っても大丈夫なのかな。とか。分からないと不安だ。まあ、その不安がスパイスになるのかもしれないけれど。
 向かいのカップルは相変わらず楽しそうだ。目があったような気がしたけど、気にしない。
 もうすぐ目的の駅に着く。
 貸したものは、返される。それは肩であっても、だ。
 一駅前で、隣の人はぱっと起きて、降りていった。
「ありがとうございました」
 終始冷静でいるはずだったのになあ。その囁きさえなければ。
 ものすごく動揺して、固まってしまった。
 魔力って何だよ。
 思わずそう呟きながら、もしかしたら明日も同じ時間の電車なのかなと思ってしまう。
 外は冬らしかったけれど、不思議とその風は心地よかった。

レトリック・オア・トリート


 お菓子をくれなきゃ巧いこと言っちゃうよ!



 言葉の扱い方が下手だ。拙いし汚い。上手く伝えようとしても届いてくれないし、諦めて放置すれば独り歩きする。統一感がないし、かといって機能的に分化しているわけでもない。お菓子を貰っても、言えるのはせいぜいお礼くらいだ。

 流れるように自然にすらすらと読める文章があるように、途中で詰まって不自然で何度も引き返してしまう読みにくい文章も、あります。読みにくい文章というものは、文法的に間違っているものが多い。一文が長過ぎる文章は、主語と動詞の対応が不適切になりがちだし、一息で読めない場合が多くどこで区切ればよいか分かりにくいだけでなく、日本語の特性上、基本的に述語は最後に置かれるので、句点が来るまで意味を確定できないことも多々あるのですが、それに加えて読点が打たれなくなれば尚更読みにくくなるはずですしそもそも書き手に文章を分かりやすく書こうという意志があるのかどうか疑いたくなるだろう。ひらがなだけのぶんしょうというのも、かなりよみにくいとおもいます。然し漢字過多至上主義者が一言隻句簡単明瞭な文章を書く訳も無く、対愚衆、対通俗の対抗手段とは言え佶屈聱牙極まり無い。一文一文は正しくても、文章全体ではおかしいということもあります。常体と敬体が入り乱れてしまったり。それはきっと、個性と呼ぶには程遠い。

 文体の個性を明確に把握するためには、まず、非個性的な一般の言語というものが前提となるはずだ。常識を覆すのは常識を知ってからだし、型を破るのは型を学んでからだ。基板が不安定なのに奇を衒うのは、全体としてますますアンバランスになるだけだ。付け焼き刃で身の丈に合っていないものを使えば、すぐに襤褸が出てしまう。だから早く切り上げたいと思ってしまう自分も確かにいるようである。
 自分の伝えたいことを、正しいあり方で表現できるようになりたいと思っている。だが、どういう扱いが「正しい」ものなのかがはっきりしてくれないのだ。本来の意味から離れて使われることの方が多くなった言葉を散見するようになった現実を見ると、正しさとは、多数決的で相対的な側面を持っているように感じる。正しいから読みやすいとか、読みにくいから正しくないとか、そういったものではないはずだ。

 正しくありたい。正しく伝えたいし、正しく理解したい。それは、課されたルール通りに振る舞いたいということであり、課されたルール通りに振る舞ってほしいということでもある。実践の中でルールを覚えるのは確かに効率的だけれど、初めに一通り説明書を読んでおいた方が良いこともある。定義を確定して言葉を使いたいから、曖昧なまま使いたくないから、私は説明書を読むのを躊躇わない。それが一冊であるとも限らないし、それらの中には修辞の凝ったものもあるかもしれないし、読者を罠にかけようとするものもあるかもしれないけれど。

 言葉は生き物であるから、常識外れで型破りな使い方をされていても、そのままの状態にしておくという扱い方もある。
 確かに言葉は生き物だ。だが、生物から栄養を摂取する際にはそれらを生きたままにしておかないことが殆どであるのと同じように、私たちは、生き物である言葉を、殺して使っているのではないだろうか。殺すことで言葉は活かされる。そんなパラドキシカルな結末を、迎えることになるのかもしれない。

long, wrong ago


 昔々あるところにいたおじいさんとおばあさんも、そのまた昔は幼い子供だった。



 生まれてから死ぬまでに間違いをしたことがなかったなんていう人はいないだろうが、生まれてから死ぬまでの間、良かったことしかなかったと思う人はいるかもしれない。それは単に「良い」という基準が何であるかによるものなのかもしれないが、もしかすると「良かったこと」しか思い出さなかったのかもしれない。それはそれで幸せな人生の終え方なのだろうが、少し寂しくもある。
 過去の出来事の中でも重要なものだけを取り上げるという性質がそこにあるなら、最後に走馬灯のように浮かぶ思い出も、ある種「歴史」的であるように思う。終わり良ければ全て良し的な発想を見ることもできるだろう。だが、それでもやはり、後悔せずにはいられない過去の過ちというものも確かにあるらしく、若い頃の、特に学生時代の失態を、「黒歴史」と呼んでいる人もいるようだ。
 黒歴史といえば中二病、という連想をする人は多いのではないだろうか。「中二病」とは、中学二年生になる頃に抱きがちな心理状態を表す造語だが、解釈の幅が広いために安易に使われてしまうきらいがある。中学二年生だからといって中二病患者であるわけではないし、中学二年生でないからといって中二病に罹らないというわけでもない。ちょっと哲学しちゃっただけで中二病に認定されることもあるというのだから恐ろしい。特徴としては、画数の多い字や難しい語、外国語や記号などの多用や、悪いことや黒いものや他と異なることへの盲信的で崇拝的な態度などが挙げられ、周囲の目が気になったり、多重人格になったりする自意識過剰期なのだが、簡単に言えば、「オレってカッコイイ」に帰着するものである。そして、これに対する「アンチ中二」が、俗に言う「高二病」である。恥や後悔からくるものなのかは分からないが、中二的な誰かを批難することで、自分を大人に見せようとしている、みたいな。少なくとも自分はそう定義している。何というか、言葉が増えるのは良いことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。せめて中身が伴っていないと困る。

 昔は良かったと懐古したくなる気持ちが分からないわけではないけれど、やはり新しいほうが優れているということの方が多いように感じる。それは多分、それらが同一の目標に向かっているからだ。どれだけ目標に近づいているかという、はっきりしたものさしがあるからだ。「優れていることは良いことだ」とは言えないと思う人があるかもしれないが。
 そんな数多くある「新しいから優れているモノ」に対して、芸術は、新旧で優劣つけることが難しい。というかできない。ある一定のレベルに達してしまえば、そこには序列はない。ただ、存在するだけ。しかし、その「一定のレベル」に達するというのが難しい。何だってそうだ。権利を主張するだけの価値があるのか見直すべきものがあるかもしれない。逆に、守られる価値あるものが、間違って見逃されているかもしれない。

「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」という言葉があるが、私はそれに反論したい。未来とは、未だ来ていない、真っ白どころか透明の、何者でもないものであるのに、その決まっていない未来を「変える」とは変ではないか。未来にタイムスリップしたとしても、現在がその未来に追いつくまで、そこには何もないと考えられはしないか。それに対して過去は、意味上でならいくらでも変更可能だ。無意味な過去の記述も、簡単に伏線に仕立てあげられる。自分を変える必要を感じるのは、変わる他人と関わるからで、変わる自分が他人を変えて、変わった自分も自分としては、決して変わることはできない。間違った考えなのかもしれないが、反論の試み自体は間違いではないと思いたい。
 過去や未来や他人や自分が、何であるかを決めるのは、今の自分だけだ。それは何度だって決め直せる。

みにくいアヒルのコタリピテ


 見ていないものを正しく評価することはできない。



 誰も見たことのない美しい景色というものは、存在しません。誰も見たことがないのなら、誰もその景色について述べることはできないからです。逆に言えば、評価できたものは、その対象を認識できたからなんです。正確には「逆」ではなくて「対偶」ですけど。この論理(論理と呼べるような大したものではないけれど)に従えば、「人は見た目が10割」な気がしてきたんですよね。それはまずい、そんなの許せない、いや、可愛かったら許すかも、ああそれこそ見た目で判断してるじゃないか、なんていう感じで一人悶々としながら、このことについて少し考えてみました。

 一般に言う「見た目」とは、容姿・外見のことを指しているようですが、その「見た目」の良し悪しの基準とは何なのでしょうか? 絶対的な良さや悪さは無いと思えるので、まずは必要条件から考えてみることにします。人を人として判断するには、「人間らしいこと」が必要です。では、人間らしいとは?
 例えば、私があなたに物体xを見せて、「これは『コタリピテ』というものです」と言ったとします。「コタリピテ」が何であるか予め知っていた人はいないはずです。今思いついた言葉ですし、そもそも私にも何だか分かりません。この「コタリピテ」を初めて知ったとき、あなたにとって「コタリピテらしさ」とは、xそのもののはずです。今度は物体yを見せ、「これも『コタリピテ』です」と言ったとします。するとどうですか? 「コタリピテらしさ」とは「xとyの共通項」と考えられませんか? これを繰り返せば、「コタリピテらしさ」が次第にはっきりとしてくるはずです。「人間らしさ」も同様に考えて、ここでは「人間らしいこと」を「帰納的に得られた典型的人間、すなわち、人間のプロトタイプに近いこと」として考えることにします。
 帰納とくれば、演繹です。その「プロトタイプ」を基準に、対象を評価します。人のプロトタイプに最も近い人が「理想の人」なのかもしれません。しかし、プロトタイプは人によって違いますし、自分自身でも時によって異なります。同じ人を何度も見れば、プロトタイプはその人寄りに変化するでしょうし、よく言われる「ブスは三日で慣れる」を実際に経験した人もいるんじゃないでしょうか。この現象を「『地域名』病」と呼ぶ所もあるそうです。ただ、「慣れる」と言っても「それが平常だと感じるようになる」というだけですので、残念ながら、決して美人と序列が入れ替わることはありません。美人は、三日目にしてその美しさを再確認されるのかもしれませんし。

「見た目と性格、どっちが大事?」という究極の選択的などうしようもなさを持った質問から分かるように、「性格」は、しばしば見た目の対立項として挙げられます。見た目と性格についての優劣は、野球の試合に喩えられることもよくあり、「見た目は地方予選であり、性格は甲子園である」と言われますが、それは、「中身こそが最も重要である」ということを伝えたいのではなくて、「見た目が悪ければ予選すら突破できない」ということを伝えるための喩えだそうです。ここで、「性格が良い」とはどういうことなのか考えてみることにします。例えば、優しいとか、思いやりがあるとか……。そういった思考回路を持つ人のことでしょうか。しかし、脳内ではどうだとか、心の中ではどうだとかいったことは判断できません。見えませんから。評価している以上、どこかに何らかの形で現れるはずです。ですから「性格」とは、発言や行動が認知されて初めて発現すると言ってもいいのかもしれません。そして、言葉や態度で表されるものを「見た目」と呼ぶのであれば、人は「見た目」で十分に判断できるのでしょう。
 性格とは、日々の意識の積み重ねによって形成されるのではないでしょうか。几帳面だとか冷静だとか陽気だとか正直だとか、そういうものは選択の結果であるように思えます。例えば毎回の会話で、正直でいるか嘘をつくかは自由ですから、常に正しくあれば正直者なのだろうし、嘘をついてしまえば、それが一回であっても嘘つきだと言われてしまうかもしれません。だから正直者でい続けることは難しいです。行動を自由に選べるという意味で、性格は可変性のあるものだと言えると思います。変えるには時間がかかるかもしれませんが。
 自分にとって都合のいい人を「性格が良い人」と言うのかとか、逆はどうなのかとか、犯罪者は「性格が悪い」のかとか、よく分からない所も多くて、「性格」は、私にはまだまだ難題のようです。

 見たいように見てはいけないし、余分に足したり無駄に引いたりしてもいけません。振る舞いを投影して外見を判断しがちですが、外見と内実は本来独立した別個のものであるということを忘れてはいけません。そうしたバイアスが、あるべき姿をミニクくしているのかもしれません。

色取り取りな彩り緑


 緑の黒髪の少女は、赤い白墨が好きだった。



 少年は、混乱していた。
 少女は、その緑の髪を風になびかせながら笑っていた。少年の顔色を窺い、ゆっくりと深呼吸する。右ポケットの赤い白墨をぎゅっと握り締める。そして少女は顔を赤らめ、黄色い声で少年の名前を呼んだ。
 少年は酷く混乱した。青い顔をしていた。
 少年は色を失っていた。いや、少年は、少女の色を見失っていた。


 何かを一目見るだけで、その色がどのようであるかは容易に分かってしまうから、少年が色で混乱するようなことは、普通は考えられない。そういうわけでこの話は破綻してしまうのだが、このままこの話を終わらせるわけにもいかないだろう。そう、色である。少女は、何色だったのだろうか。
「緑の黒髪」という言葉を初めて耳にしたとき、僕は即座にその髪の色をイメージすることができなかった。黒板のような色を思い浮かべる人があるかもしれないが、辞書によると「緑の黒髪」は「黒くて艶のある髪」だそうだ。英語では“raven-black hair”と表記される。烏の濡れ羽色ということなのだろう。「緑」は、グリーンではなかった。
「赤い白墨」という表現も気になる。形容矛盾ではないのか。そもそも形容詞を取り除いた「白墨」ですら白色なのか黒色なのか分からないというのに、「赤い」とはどういうことなのだろうか。結論を先に言えば、その白墨は、赤かった。「墨」が黒い顔料であるとか、「白墨」が白チョークに限るとか、そういうことではなくて、ここでの「白墨」は単なるチョークを指していただけであった。この調子で「木製の鉄器」などというモノが現れたら、それはそれでこわいのだけれど。

 色といっても色々あるが、色が色々あるのではない。色々な色の言葉があるだけだ。虹は七色だと言われるが、英語圏では、藍(indigo)を除いた六色であるとすることもある。どちらが正しくてどちらが間違いだということではなく、ただ単にそういう違いがそこにあるだけだ。雨の多い日本では雨を表す言葉が数多くあったり、犬も狸も狼も全て同じ言葉で表す言語があったりするといった、切り分け方の違いなのだ。
 分節化をすればするほど良いというわけでもない。選り取り見取りであることが必ずしも良いことであるとは限らない。多すぎる選択肢に悩まされることもあるかもしれない。人生は選択肢の連鎖だが、ある選択をして後悔をするくらいなら、一本道で単純な生き方の方が良いと思うこともあるかもしれない。だがしかし、複雑だからこそ面白いという意見も当然あるだろう。

 墨が見ている赤色が、何故この色なのかは分からないし、他の誰かの赤色と、全く同じに見えているのかどうかも分からない。少年が少女の髪を見て感じた色は、誰かにとっては緑色と呼ぶものだったかもしれないし、少女の好きな赤い色も、誰かの赤色とは一致しないかもしれない。だが、全ての人が少女の髪を見て黒色だと感じるだろう。少女の持つ白墨を見て赤色だと思うだろう。たとえ異なる見え方をしていたとしても。

 何かを選ぶということは、何か以外を捨てるということだ。
 だが、全てが掛け替えのないもので取り返しのつかないことであるというわけではない。選び直せることもある。やり直せることもある。

 緑の黒髪の少女だって、たまには別の色の白墨を選ぶかもしれない。
 それが何色であるかは分からないけれど。

見えざる手返し二十五階段


 悲惨な現実に目を瞑ることがあるかもしれない。
 それでもなお、思考することはできる。



 間違えるということは、一概に悪いとは言えないのではないでしょうか。偶然の正解で上手くいくことは、その時々では良いことのように思えますが、同時に、大事な時に同じように上手くいくとは限らないという危険性もあります。一度間違えることで、その間違いを認識でき、次回の確実な正解と成功に繋げることができるのです。初めから間違えないようにしようと気を付けすぎて、かえって成功から遠ざかることがよくあるように、「完璧主義」は「完璧」と似ているようで大きく違うものなのでしょう。誤ったなら謝って、やり直せば良いのです。もちろん、間違えて良いことと悪いことの判断は必要ですが。法を犯したり、罰として絞首台に立たされるようなことをしたりするのでなければ、失敗も必要なステップアップです。人は万能な神ではないのだから、失敗してしまうことだってもちろんあります。失敗を恐れる必要はないのですが、だからといって、それは過ちを繰り返しても良いという意味ではありません。間違いは、正しい景色を見るための、階段なのです。
二重に間違えて正しい方向に進むということも、多くはないにしろあります。それは例えば、考え方を間違えたけれどやり方も間違えたせい(おかげ)で良い結果が生まれるといった一個人内のものだけでなく、互いに相手が自分のことを好きであると誤解したことで生まれる恋愛関係といった二者間のそれも確かに見受けられるようです。それが良いことであるか悪いことであるかは分かりませんが、まあ、恋愛については、偏心(ひとえごころ)を持ち続けるのであれば、多少変なきっかけでも問題ないのかもしれません。

 心は不可視で不可思議です。見なくて済むことで得られる安心は確かにあるようですが、見えないということは分からないということであり、それは恐怖に繋がります。怪談が怪談として成立するのは、怪異が人智を超えたところにあるからです。その意味で、神と怪異は紙一重だと言えるのではないでしょうか。
「見えないものこそ大事である」という言葉を何度となく見聞きしたことがありますが、目に見えるものが大事ではないという意味ではないということは言うまでもありません。見えないものは、その存在に気付かれにくいために、そして、見えるものは当然のものとして見逃されやすいために、その重要性を認識されにくくなっているのかもしれません。
 知らない怖さがあるように、知る怖さもあります。「知らぬが仏」で「言わぬが花」なのかもしれませんが、知らないでいることと違って、知ることには、積極的な喜びがあるのではないでしょうか。

 一を聞いて十を知ることができるのなら、十や二十を教えられた頃には、百も承知で二百も合点なのかもしれませんが、それがどんな内容であろうとも、百聞は一見に勝ることはできないのです。