2018-10-28
親族の結婚式のため、地元福岡県に帰っていました。時間的に余裕がなくて精神的にもゆとりはありませんでしたが、家族に航空券をとってもらい、なんとか帰れました。意外とこの時期も航空券は高いんですね……。
結婚式(披露宴)では、お祝いのためというかなんというか、マジックをしてきました。
持ち時間は5分間とかなり限られていたため、走ってしまった感が否めませんでしたが、まあ盛り上がったと思います。数年前にワイヤレスマイクを買っていたのがここでも活きてよかった。それにしても5分間って。つい先日も5分間の大事なプレゼンテーションをしてきたばかりだというのに(だからこそ体感で5分間は身についていたと思う)。
知り合いもどんどん結婚してきています。自分にとって、そういう日が来るのかどうかはちょっとなんとも言えないのですが、考えなければいけない話題ではあるとは思っています。本当は、自分から「結婚したい!」と思えたほうが良いと思うんですけど、今はまだちょっとコメントできないですね。
いろいろ思い出してしまうなあ。
一瞬、「この人とお付き合いをするということは結婚を前提にしなくちゃいけないんだろうな」と考えなければならない時期があったのですが、やはり自分のその時の状況を考えるとかなり無理があって、というか経験値がなさすぎるというのもあって、不安しかなかったんですよね。結局まあそれはそれで終わった話なのですが、タイミングがあまり良くなかったんだろうなと思います。相手の方はおそらく良い人だろうと思ったのだけれど、もう少し別の出会い方をしていればなあと思ったり思わなかったり。
こういう話題はめずらしいと自分でも思うし、普段あまり人から聞かれないことなので話すのに慣れていません。みんな、他の人には結構聞いているはずなのになんででしょうね。そういう話題はするなオーラでも出てるんですかね。あとは間に合ってますオーラとか。うーん。
ばたばたしてたんですけど、これでひとまずいろいろと落ち着いたので、リフレッシュしてまたやっていきたいと思います。
その日のうちに東京に戻る予定です。
2018-10-24
電車内でスマートフォンやタブレット端末を使用しない人を見かけないことがない世の中になりました。
それはまあ良いことではあるとは思うのですが、リテラシーを身につけてないと非常に危ういなと思うことも非常に多くあります。
見ようと思っていなくても見えてしまうことってあるじゃないですか。変な意味ではなく。
電車で隣りに座っている人が、仕事のメールをチェックしていました。50歳くらいの男性。
内容はおそらくそこそこ重要そう。職業も、今どんなプロジェクトが動いているのかも、誰とやりとりをしているのかも分かってしまいました。そこまで分かったらチラ見の範疇をこえていると思うかもしれないですが、前かがみでタブレット端末を広げていたらそりゃもう見てくれと言わんばかりの面積を占めるわけですよ、僕の視野を。
僕も昔こういうミス(?)をしたことがあって、Twitterを見ていたら近くにいた知り合いに見られてアカウントがバレてしまいました。まあ隠しているわけではないので別に問題はなかったのですが、不本意ではあります。
この程度なら良いんですけど、機密情報が漏れたとしたらこわいですよね。そもそも外出中にそういうものを触るのはやめたほうがいい。
そういう意味では、パソコンでのみブログを更新するというのは、変に外部から知られてしまうのを防いでいたのかもしれないです。外で空いた時間にスマートフォンで更新しようとすると、やはり周りの目がありますし。ま、これも広まっていいんですけどね、別に。
イメージはほとんど裏切らないもので、あやしいなあと思っていた人のSNSのアカウントをたまたま見つけてしまったとき、そんなにその内容で驚きはしないんですよね。やっぱりそうだったか、みたいな感じで。意外と見た目に出ているものなんだなと思います。
「転生」なんかもそうです。おそらく、アカウント名を変えたりアイコンを変えたりしても、分かる人にはそれが分かってしまうんだろうなと思います。良いのか悪いのか。そもそも自分にとってアカウントを消したり新たに作ったりという行為は変に自我が分断される気がして嫌なので、やらないようにしていますが。あと単純にあれです、自分はそれをされて少し悲しいなと思ったので、だからしないです。別にだから他の人にするなと言っているわけではなくて、単に自分が気持ち悪くなるので。
2018-10-16
ひと波越えた感じがあったので、同期と打ち上げ(そしてこれからだの会)をしてきました。
配属的にややかっちりとした形態で、自由に自分で何かをしたいという人にはきついだろうというところで、仲良くやってます。
みんなそれぞれに思い、まあ誇りのようなものがあるのはなんとなく感じてはいたのだけれど、純粋な「その人の状況、置かれている/育ってきた環境」についてはあまり知らなかったなと思いました。
特に家庭環境。両親や兄弟姉妹のことをあまり把握しておらず、自分の感覚で話していると地雷を踏みかねないなと思ったし、そもそも地雷と呼ぶには意外とよくあることなのだろうとも思った。案外、すべて円満なところのほうが少ないのかもしれないなと。
誰かを羨ましく思ったり、誰かになりたいと思ったりするとき、その人の「どこになりたいのか」「何に惹かれているのか」をしっかりと認識しておく必要があると思うんですよね。その人の奥にある苦悩や過去の重圧に耐えられるかは分かりませんが、少なくともそういうものを無視できるものとして会話すると、認識の齟齬が激しくてお互いつらいと思います。
お酒を飲みながら何を考えてるんだろうってたまに思います。
2018-10-15
今日、すごく眠い朝でした。
普段はずっと眠っている土日を、休まずずっと作業していたからだとは思います。
体力が持つ気がしませんが、食欲はあるので問題なさそうです。食欲はあるんですけど、食事する時間的な余裕があまりなさそうです。
2018-10-14
情けなくなりました。
あまりにも自分の心に余裕がなさすぎる。そもそも心があるのかという話は置いておいて、こんなにも駄目だとは思っていなくて、誰かに送るメッセージが推敲のない、思慮のない乱暴な書き方になってしまっていて、それを時間のせいにして。完全な悪循環だ。
でも思うのは、逆に今まで気を張りすぎていたんじゃないかって。むしろ大多数はこの乱暴さに慣れている可能性もあって、それはそれで恐ろしいことではあるけれど、だからって自分のやり方を誰かに押し付けたり、自分が感じてきたことを感じさせようと思ったりはしたくなくて。
我々はこんなに苦労してきたのだから、未来世代も同じように苦労すべきだと考えるようなあり方もあって、少なくとも自分はそんな思考は受け入れられないと思っている。
楽できるなら存分に楽していいし、その余暇で更に発展してくれと思う。ただひとつ、なぜ楽になっているかを忘れさえしなければ。
話は戻って、僕はもっと僕の乱暴さに慣れるべきなのかもしれない。
過ごしやすい気候になって、芝生一面開けた場所で弁当を広げて団欒する家族を見たり、寄り添い合うカップルを見かける。彼らが穏やかに見えるのは、僕が穏やかじゃないのか、穏やかだったからこそそれを感じ、いま穏やかでない自分に怯えているからなのか。
2018-10-13
伝わるように文章を書くこと、私は比較的得意な方だと思っていたんですけど、それは慢心でした。
おそらく正しいとしても「特に伝えたい人だけにそれとなく伝わるような文章を書くことができる」程度なんだと思います。私自身、ものすごく冗長に文章を書きがちだったり、何が言いたいのかわからない文章を書きなぐったり、意味ありげな雰囲気を醸すだけですっからかんなことを言ったりすることは多少は自覚しているのですが、やるべきときにできていないのならこういう戯れは良くないですよね。良くないというか、単に「ちゃんとやれない」だけになってしまう。
誰が読んでも(ここでは本当に「どんな人でも」ということを言っているのではありません)分かる文章、分かる意味、理解できる流れで何かを書くというのは、自分が知っていることをどれだけ順序立てて言えるか――それは自身の知った順ではなく、誰かに伝えるためのより良い流れとして――が非常に大事なんだと思います。
自分にとってやらねばならないことが一杯でキャパシティが限界であるとか、だから時間がなくて優先順位をつける余裕もないとか、そういった理由があって落ち着いて推敲して書いて、それを読んでまた書き直してという作業が疎かになってしまっているのかもしれないけれど、その事実が既に「だめ」なのであって、そういう状況を作ってしまった過去の自分に挽回のチャンスが与えられていると考えるべきで、だからこそこういう時こそ手抜かりなくやるべき、だとは分かってはいるんですけど。
やっぱり悔しいですね。それなりに自信があったことが、ちょっとしたきっかけで崩壊してしまうほど脆いものだったとわかるのは。「そう考えているならそう書かないとわからない」と、私自身が日常の中で大事に抱えている信条を、自分自身で守りきれずに潰れてしまうのは。
考えたり、考えていることを伝えたりすることに関して、忘れずに、そして何よりも大事にして生きていたと思っていたんですけど、そうでもないみたいです。それだけ余裕がなくなってしまっているということなのかもしれませんが、それはおそらく甘えだと思うので……。
何かを言うのは何らかの反応を求めているからだと思っていて、それを意識してしまうと、誰かが何かを言うたびに「この人は一体何を求めているのだろう」と考えてしまいます。本当は、純粋な発露もあるのかもしれなくて、いつからそうは思えなくなってしまったんだろうとさびしくもなります。この「さびしさ」だって、何かを求めるようなことは意識していなくとも、自身の認識しえないどこか深い部分で希っているのかもしれないのだ。気持ち悪いなと思いつつも、それはそれでかわいげがあっていいと思う瞬間もあるのだと思う。
何が言いたいんですかね。
考えずに書いてたんじゃそりゃわからないし、何も伝わらないのは当然で、だから、しっかりきっちり、考えていきたいと思います。
おそらくこういう生き方が一番自分を活かせると思うので。
2018-10-12
電車で前にいる人の持つスマートフォンの画面に「いざTwitterでつぶやこうとしてもつぶやくことがない人へ!」みたいな記事を読んでいて、手段と目的がどうなっているんだと思いました。逆パターンなんですかね。とりあえず何かお題を与えられて書いていれば、そのうち自分からでもアウトプットできるようになる、みたいな。
「書きたいことがない」状態が、もしかすると「書けることはたくさんあるのにそれを表現する能力がなかったり、それがあると気づく能力がなかったりする」状態なのかもしれません。それならそこを鍛えるしかないとは思います。ただ、そうではなく単に何か書いて注目を浴びたいが書きたいと思うことは何ひとつないしそもそも書くことが好きでもなんでもないなら、無駄だと思うのでやめたほうがいいです。
画面を見ていたその人は頷きながら熱心に読んでいたので、そういうのが好きな人なんだなとは思いました。最近特にブロガーだったりなんか変な(知らないだけです)人たちが多いので、どうもそういうのはうさんくさいんですよね。
伝えたいと思ったことを、伝えたい人が伝わってほしい人のために書いたものを読みたい。
2018-10-11
やっぱり中身がないのに続ける必要もない気はします。
今月に入ってからそれなりに更新してみてはいるのですが、そもそもその理由というのが、なんとなく、最近ある程度の長さを持った文章を読む能力もしくは忍耐力が落ちているのではないかと感じてしまい、何とかしたいと思ったからで……。そういうわけで文章を書いたり読んだりしているのですが、少し経った今、他の理由なのではと思いはじめていて。
おそらく、大きな理由は、読むのに必要な前提知識や常識が少し足りていないからなのだと思います。それで読むスピードが落ち、理解度も落ち、疲弊しているのだと思われます。
でもまあこれはある意味で仕方ないというか、通る道である気がします。ちょっと耐えて反復していればなれるものなのではないかと。
今日も体力がなくなってきたのでそろそろおやすみします。
2018-10-10
今月始まってから、ほぼ毎日8時過ぎに家を出て日付が変わる頃に帰宅しています。
健康的なのか大変で不健康なのか。
大変です。やることが多いのと、一晩置いて練ったほうがいいものがあるのとでややいっぱいいっぱいです。他に勉強したいこともあるんですけど、なかなかそれに注力できません。月末は従兄弟の結婚式で帰省しなきゃいけなくて、その飛行機も予約しなきゃいけないんですけど、時間を考えたり安いものを探したりする、そんな時間はないんですよね。
家では寝てるだけです。
リズムが作れて良いと言えば良いんですけど、これが持続するかは不安なところです。