反定立の灰になるまで

燃焼や研磨のあとに残る、何か

2018-10-13

 伝わるように文章を書くこと、私は比較的得意な方だと思っていたんですけど、それは慢心でした。

 おそらく正しいとしても「特に伝えたい人だけにそれとなく伝わるような文章を書くことができる」程度なんだと思います。私自身、ものすごく冗長に文章を書きがちだったり、何が言いたいのかわからない文章を書きなぐったり、意味ありげな雰囲気を醸すだけですっからかんなことを言ったりすることは多少は自覚しているのですが、やるべきときにできていないのならこういう戯れは良くないですよね。良くないというか、単に「ちゃんとやれない」だけになってしまう。

 誰が読んでも(ここでは本当に「どんな人でも」ということを言っているのではありません)分かる文章、分かる意味、理解できる流れで何かを書くというのは、自分が知っていることをどれだけ順序立てて言えるか――それは自身の知った順ではなく、誰かに伝えるためのより良い流れとして――が非常に大事なんだと思います。
 自分にとってやらねばならないことが一杯でキャパシティが限界であるとか、だから時間がなくて優先順位をつける余裕もないとか、そういった理由があって落ち着いて推敲して書いて、それを読んでまた書き直してという作業が疎かになってしまっているのかもしれないけれど、その事実が既に「だめ」なのであって、そういう状況を作ってしまった過去の自分に挽回のチャンスが与えられていると考えるべきで、だからこそこういう時こそ手抜かりなくやるべき、だとは分かってはいるんですけど。
 やっぱり悔しいですね。それなりに自信があったことが、ちょっとしたきっかけで崩壊してしまうほど脆いものだったとわかるのは。「そう考えているならそう書かないとわからない」と、私自身が日常の中で大事に抱えている信条を、自分自身で守りきれずに潰れてしまうのは。
 考えたり、考えていることを伝えたりすることに関して、忘れずに、そして何よりも大事にして生きていたと思っていたんですけど、そうでもないみたいです。それだけ余裕がなくなってしまっているということなのかもしれませんが、それはおそらく甘えだと思うので……。

 何かを言うのは何らかの反応を求めているからだと思っていて、それを意識してしまうと、誰かが何かを言うたびに「この人は一体何を求めているのだろう」と考えてしまいます。本当は、純粋な発露もあるのかもしれなくて、いつからそうは思えなくなってしまったんだろうとさびしくもなります。この「さびしさ」だって、何かを求めるようなことは意識していなくとも、自身の認識しえないどこか深い部分で希っているのかもしれないのだ。気持ち悪いなと思いつつも、それはそれでかわいげがあっていいと思う瞬間もあるのだと思う。

 何が言いたいんですかね。
 考えずに書いてたんじゃそりゃわからないし、何も伝わらないのは当然で、だから、しっかりきっちり、考えていきたいと思います。
 おそらくこういう生き方が一番自分を活かせると思うので。